煙が目にしみる

猫と老人の日記

And I Love Her(22)

葬儀屋のハイエースが「フォーンフォーン」とお別れのクラクションを鳴らして動きだした。 葉沼くんがアンプのボリュームを上げると、BOSEのスピーカーから大音量でビートルズの「ドライブ・マイ・カー」が流れ出した。僕は驚いて葉沼くんの顔を見た。 彼は…

And I Love Her(21)

司会進行は葉沼くんがやったのだが、一応葬儀屋さんも来ていたらしく、祭壇の前に置かれていた礼子さんの棺を黒服の男たちが抱えて、部屋の中央に置いた。 「お別れの時間となりました。名残惜しいですが、皆さんどうぞ故人の周りにお集まりください」葉沼く…

And I Love Her(20)

ぼおっとしている間に、お経も終盤にさしかかっているようである。 僕は子供のころから、校長先生の長い話や、学校行事に来なくてもいいのにやってきた来賓が、子供たちを体育館や講堂に集めて聞きたくもない話を長々とするときは、たいてい意識が遠のいて、…

And I Love Her(19)

島崎家の床に敷かれたエスニック柄のカーペットを見ているうちに、僕はいつしか妄想の世界へと入り込み、大昔の記憶の糸をたぐり寄せていたのだが、「住職が来られました」という葉沼くんの声で現実に引き戻された。 葉沼くんの案内で3人のお坊さんが入って…

And I Love Her(18)

食事を終えて、チャイを飲みながら僕たちが談笑していると、ガヤガヤと大勢の若者たちが入って来た。見ると、この辺りで見掛けるような連中ではなく、レイバンのサングラスに真新しいスウェット、細身のジーンズにアディダスの靴を履いている。 さらに驚いた…

And I Love Her(17)

いすやテーブルを取っ払って大広間のようになったレストラン「オリーブ」の床には、カラフルなエスニック柄の敷物が敷き詰められていて、喪服を着た人々が座っている。 ぼんやり眺めていた僕の脳裏にはある光景が浮かび上がってきた。 ずいぶん昔のことだが…

And I Love Her(16)

島崎さんの家に入るのは初めてである。 家の中は天井も高く広々としている。入ってすぐのところがレストランとして使われるために普段は4人掛けのテーブルが5つほど置いてあるらしいのだが、きょうはすべて片付けてあり、板張りの床にはエスニック風の柄の…

And I Love Her(15)

「ハヌマくんも、もう来てるみたいですね」 フルモトは空き地に並んでいる車を見ながら言った。 軽自動車、トラック、バン、ジープ、さまざまな車が並ぶ中で、荷台にブルーシートをかぶせた軽トラックは間違いなく葉沼隆の車である。 葉沼は陶芸家で、ここか…

And I Love Her(14)

フルモトの運転する軽バンは町を出て、山道に入って行った。 本や雑誌を満載して、さらに大人二人が乗った軽自動車にとってはきつい上り坂が続く。狭くまがりくねった山道をノロノロと進む。下りの対抗車が来ないのが幸いである。この道での離合は、いくら軽…

And I Love Her(13)

表通りの商店街は人通りもなく、これ以上に寂れようがないというほどのシャッター商店街になっている。営業しているのは中古書店(なかふるしょてん)と、100円ショップ、ラーメン屋、郵便局ぐらいのもので、実に閑散としているのだ。商店街の共同駐車場…

And I Love Her(12)

翌日の午後、私は隣町にある古本書店(ふるもとしょてん)を尋ねた。 島崎洋司の妻、礼子の葬儀は自宅で執り行われるということだったが、私は島崎の自宅を知らないので、古本光輝(ふるもとみつてる)と一緒に行くことにしたのだった。 古本(ふるもと)の…

And I Love Her(11)

いつもなら途中で口を差しはさみ、話題をオカルトのほうに誘導したがるのに、めずらしく白井治は私の昔話を最後まで聞いてくれた。 なぜ、私がこういった思い出話をしたのか、また白井治がなぜ私の昔話などに関心を示したのか、それは良く分からないのであっ…

And I Love Her(10)

私がもう半世紀も前の話を思い出したのは、白井書店の白井治と雑談しているうちに、問われるともなく昔話を一つ二つ思い出しながら語ったのがきっかけであった。 面白いことにもうすっかり忘れてしまっていたはずのアコのことを知らず知らずに話している自分…

And I Love Her(9)

喫茶店「だるま」で暖を取り、熱いブラックコーヒーとサンドイッチで一息ついたものの、そこからホテルへの帰路は結構遠く、途中で吹雪き始めたので帰り着いたときの僕は雪だるまのようになっていました。 冷え切った体を温めるために、風呂場に向かいました…

And I Love Her(8)

女の人は酔っているのか、それとも泣いているのかカウンターに突っ伏してしまい、店の中は沈黙と静寂に支配されつつありました。 マスターは、僕の存在を思い出してくれたのか、やっとこちらへやってきて「ご注文は?」と訊いてくれました。 「何か食べるも…

And I Love Her(7)

稚内の公演を終えて一度旭川に戻ったときのことでした。 「すごかったんですよ。あの子、おれの背中に爪を立てて、もう足をからめちゃって放してくれないんですから」 「ええ? フジモリ、おまえあの子とやっちゃったのか?」 「そうですよ。あの子なかなか…

And I Love Her(6)

ソーカーさんの遺体はマニックと共にカルカッタへ帰って行きました。 亡き父親の葬儀に出ることもなく、ジュニアはあとの公演を引き継いで、マジックショーを続けることになりました。 僕たちの移動も続きます。名寄から稚内までの道北の町々でショーを行い…

And I Love Her(5)

わざわざ自分たちの宿舎から僕を誘いに来てくれたのかと思ってオニールに訊いてみたのですが、彼らインド人スタッフの男性陣は宿舎替えをして、僕たち日本人スタッフと同じホテルに移ってきていたのでした。 彼らは、ホテルの厨房を借りて自分たちの食事を作…

And I Love Her(4)

自分のホテルにもどって、夕食までまだ時間があったので、部屋でたばこを吸いながらぼんやりとしていました。このころは、一日にショートピース3箱ぐらい消費していたから、30本は吸っていましたね。忙しいときはそれほど吸えないのですが、ショーがない…

And I Love Her(3)

ソーカーさんの後継者であるP.C.ソーカー.ジュニアが、デイさんと一緒に部屋に入って来ました。このとき、僕は初めてソーカー.ジュニアを見たのですが、兄のマニックと比べるとふっくらとしていて、口髭も生やしているし、亡くなった父親に良く似ていました…

And I Love Her(2)

ソーカーさんが亡くなった3日後、雪は降っていなかったけど、ものすごく寒い日でした。 僕たち照明班は、公演再開まで旭川で待機することになっていました。 その日の夕方、ソーカーさんの長男のマニックと、二男のジョホールが旭川に着く予定でした。 東京…

ア・デイ・イン・ザ・ライフ(12)そして And I Love Her(1)

ベリョーザの店内は、ほぼ満席でした。 アコは僕を見つけると、店の一番奥の席に案内してくれました。 「ごめんね。ここしか空いてなくて」 「いや、いいよ。僕一人だけだから」 「団長さん、亡くなったんだね。ニュースで言ってたよ」 「僕らもビックリした…

ア・デイ・イン・ザ・ライフ(11)

僕たち日本人スタッフがホテルで遅い朝食を取っていると、マネージャーのノノムラさんがやってきて、ソーカーさんがけさ亡くなったと伝えました。 インド人側のマネージャーであるデイさんが、ソーカーさんが部屋の窓際に置かれたいすに座ったまま亡くなって…

ア・デイ・イン・ザ・ライフ(10)

イワモトさんは、魔術団の移動用に用意されたバスで、インド人たちと一緒に旭川まで来たのですが、魔術団の人たちは防寒着など持っていなくて、特に女の人たちは薄い布地の民族服の上にコートを羽織っただけで、寒そうだったと言います。 「ほんとに冗談じゃ…

ア・デイ・イン・ザ・ライフ(9)

旭川での二日間の公演を終えて、美深町、士別市といった旭川からさらに北に行ったところにある町で公演を行いました。 舞台では毎日インド人の団員たちと接しているわけですから、しだいに何人かの人と親しくなっていきました。 親しいとまでは言えないけど…

ア・デイ・イン・ザ・ライフ(8)

その日は、リハーサルを兼ねてそれぞれの演目で用いるカーテンや、大道具の出し入れ、そして大きな道具類がとにかく多いので、それをステージの袖にどうやってスタンバイさせるかなど、いろいろなチェックを行いました。 ドロップカーテンは、ステージの上に…

ア・デイ・イン・ザ・ライフ(7)

ステージにP.C.SORCARインド大魔術団の大道具、小道具、カーテンなどが運び込まれました。 魔術団の人たちはバスで会場に到着すると、例の宝箱からマジックに使う小道具類や、ステージ衣装、それに大掛かりなマジックに用いる大道具などを取り出して、次々に…

ア・デイ・イン・ザ・ライフ(6)

目を覚ますと1971年の元日になっていました。 仕事始めの日です。トラックの荷物を降ろして、会場に搬入しなければなりません。 幸いにそれほど雪も降っていないし、地元の人に言わせると「暖かい日」だそうで、搬入も楽でした。第一、H興行の地元ですから、…

ア・デイ・イン・ザ・ライフ(5)

実は、タニムラさんは大型車の免許を取ったばかりでした。 いきなり荷物を目いっぱい積んだ11トントラックを運転して、冬の北海道まで走るのは冒険というよりも暴挙じゃないかと、僕は不安に感じていました。 タニムラさん本人はもっと不安だったと思います…

ア・デイ・イン・ザ・ライフ(4)

1970年12月30日。 横浜港でP.C.Sorcar魔術団の道具類をトラックに積み込むと、僕たちはそのまま北海道へと向かうことになっていました。 港近くの倉庫には通関を終えた荷物が並んでいました。 現場には、今回の日本公演の興行主である北海道旭川のH興行の人…