ア・デイ・イン・ザ・ライフ(1)
家出の経験が一度だけあります。
大昔のことです。
そのころ僕は大学を中退して家業をしばらく手伝っていました。
手伝っていたと言えば聞こえが良いのですが、することがなくて手伝わされていたのです。
当時は兄の家に居候していました。
兄は僕より12歳上で結婚もしていて子供もいました。
大学を中退したのは家業を手伝うためではなかったのです。
70年安保のころで、学生運動が次第に過激化していき、内ゲバなどやっていた時代でした。
僕も何となくではあるけれど、共産主義というものが実現出来ればそれは理想的だと思っていました。
ただ、共産主義といっても、ソ連や中国の共産主義は間違っている。あれは発達した資本主義がその矛盾を解決するために革命を経て到達した共産主義ではなくて、資本主義が未熟な段階で無理やり社会主義革命まで持っていったたために生まれたいびつな独裁国家だという具合に理解していたのです。
まあ、そんなことはどうでもいいのですが、国家権力と戦うのではなくて、仲間うちで殺し合いをするようになったら、誰も支持はしないし、それは革命運動というよりヤクザの抗争と何も変わらないのではないかと感じていたのです。
というようなわけで、「おいらいちぬけた」と学生運動も大学もやめてしまいました。
さて、それからどうしようか。
そのころ姉が米軍の兵隊さんと結婚してアメリカに住んでいました。
姉を頼ってアメリカに留学したらどうかと母が言いました。
兄さんの仕事を手伝えと父は言ました。
兄はデパートでペットショップをやっていたからです。
もともとは父が開業した店でした。
日本の学生運動には嫌になっていましたが、まだ「世界革命」という幻想は持っていました。
姉のいるアメリカよりも、「パリ5月革命」のフランスに行ってみたいと思いました。それで兄の家に居候しながら、お金がたまったらフランスに行こうと考えたのです。
ラジオのフランス語講座で勉強をしながらデパートで働く、そう決めたのですが、現実はそんなに甘くはありませんでした。
まず、第一に自分自身のことが良く分かっていなかったのです。
自分で考えるよりもはるかに現実の僕はナマケモノです。
フランス語講座のテキストを買ってきて、ラジオも時間になると聴いてはみるのですが、頭のほうはまったく関係ないことを妄想しているという具合でした。
とにかく僕には子供時代からいまに至るまで、目の前のこととはまったく関係ないことを考えているという妄想癖があるのです。
別の言い方をすれば集中力に欠けているということなのですが。
そんなわけでフランス語の学習にも身が入りませんでした。
でも、ペットショップの従業員としては、毎朝出勤してちゃんと働いていました。
そんなある日、大学時代の友達が遊びに来ました。
その友人は夜遅くやってきて、僕の部屋に泊まって、翌朝早く帰っていったのでした。兄はそのことで、僕をとがめました。
「おまえの友達は、ひとの家に泊まるのにあいさつも出来ないのか」というようなことを言いました。
友人が訪ねてきた時間も遅かったし、出ていったのも早朝だったので、兄と顔を合わせることがなかったのです。
そのことで「あいさつもせずに、夜中に来てコソコソと出て行った」と腹を立てていたのでした。
それは違うと思いながらも抗弁出来ませんでした。
兄とは12歳も年が離れていて、高校時代も兄の家から通わせてもらい、小遣いも兄からもらうという生活をしてきて、いわば親代わりみたいなものでした。
頭ごなしに言われても、いつも言いかえすことは出来なかったのです。
まあ、そういう状況だったので、僕も気ままに暮らしたいと思い、次の日の早朝コソコソと家を出て駅に向かったのでありました。
持って出たのは文庫本のランボー詩集と辞書と、兄の机の上にあったフランス製のサングラスだけでした。
その後のことは省略しますが、いろいろあって、数年後に兄の家に舞い戻ることになったそのときのことです。
僕が部屋に入っていくと、夕食を済ませた兄はレコードを聴いていました。
かけていたのは僕の好きなウェス・モンゴメリーの "A DAY IN THE LIFE"でした。
ビートルズの曲をジャズにアレンジしたものです。
兄は僕のほうを見るなり「食い詰めて戻ってきたか」と言いました。
義姉は「そんなこと言わなくても」ととりなしてくれましたが、僕は兄のそういう言い方に腹は立ちませんでした。
しばらくして兄は「コーヒーを淹れてくれ」と、言いました。
兄は僕の淹れるコーヒーが美味いといつも言っていたのです。
兄が亡くなってからもう8年経ちます。
あと4年もすれば僕も兄が亡くなった年になるのです。