煙が目にしみる

猫と老人の日記

And I Love Her(10)

 私がもう半世紀も前の話を思い出したのは、白井書店の白井治と雑談しているうちに、問われるともなく昔話を一つ二つ思い出しながら語ったのがきっかけであった。

 面白いことにもうすっかり忘れてしまっていたはずのアコのことを知らず知らずに話している自分に気が付いたのである。

 正直言って声も顔も覚えていない。すべて記憶の底に沈み、二度と浮かびあがってはこないはずの思い出だったのだが。

 

 アコとはあのとき以来再び会うことがなかった。照明チーフのタニムラさんやフジモリくんと何かあったのだろうというのは、まったく私の勘繰りに過ぎなかった。

 それは東北公演のために北海道を離れてから、タニムラさんから聞いて分かったことだった。

 アコの交友関係にそこまでこだわっていたにもかかわらず、なぜ、彼女のことを忘れ去ってしまったのか、いまとなってはもう分からない。

 

 あのあと、インド魔術団は旭川を出て網走、北見、斜里、中標津といった北東部の町で公演を行い、札幌へと南下していった。

 その道中での事故のことはいまでも良く覚えている。札幌へと向かう途中吹雪になった。夜の移動だったので、トラックのヘッドライトに照らされた雪はハレーションを起こして前が良く見えなかった。地元のドライバーである大石さんが運転する8トン車が前を走っていて、タニムラさんの運転する11トン車があとを走っていた。もちろん私は11トン車の助手席に乗っていたのだ。

 ただでさえ吹雪で視界が悪いうえに、前を走行する8トン車の巻き上げる雪煙のために外はまっ白で何も見えなかった。

 タニムラさんも私も道を知らないので、前の車から離れるわけにはいかなかった。8トン車のテールライトの赤い光を目印にして走るしかなかったのだ。

 

 連日の公演のために疲れと、まっ白な雪と赤い小さな光だけを見詰めている単調な時間が眠気を誘った。睡魔にあらがうのは難しく、いつしか居眠りをしていた。

 その瞬間、ドカーンという衝撃音がして、トラックは急停車した。

 タニムラさんは私以上に疲労していたので、彼もついうとうととしてしまったらしい。前の車に接近し過ぎて追突したのだった。

 

 そのときの衝突で助手席側のヘッドライトがつぶれてしまった。幸いに運転席側のライトは大丈夫だった。反射的に右にハンドルを切ったために助手席側から追突したのだった。ドライバーはこういうとき、たいてい自分の身を守ろうと反射的に右にハンドルを切るらしい。そして、助手席に乗っていた者が犠牲になることも多いという。

 前の見えない雪道走行だったので、スピードは出せなかった。それが幸いしてというか、そのために起こした事故ではあるのだが、二人ともケガはなかった。

 左側のヘッドライトがつぶれただけで済んだ。前の8トン車はまったく無傷だった。大石さんも驚いて車を降りてきた。

 大石さんの話ではあと数キロで、その夜宿泊する予定であった定山渓に着くだろうということだった。

 しかし、この数キロの走行はいままで経験したことのないような緊張の連続だった。

 左側のライトが駄目になったので、左側は見えなくなった。右のライトだけでも良さそうなものだが、冬の北海道を走ったことがあれば分かるように、道路の両側に雪がつもっていて、道幅が分からないことがある。特に夜間、それも山道を走っていると道幅が分からず転落することもあり得る。

 トラックには夜間作業用に大きな懐中電灯を積んでいたので、私は助手席からその懐中電灯で左前方を照らし続けた。

 

 前のトラックに接近し過ぎて、うっかり急ブレーキを踏むと凍結した道路だからすぐにはとまらず、再び追突しかねないので、ノロノロ運転で走るしかなかった。

 ちょっと離れると雪の煙幕のためにテールライトも見えなくなる。

 昼間なら10分もかからずに着くところが、30分以上もかかった。私たちには30分どころか3時間ぐらいに感じられたのである。

 

 定山渓のホテルに着いたときには、先導した大石さんも神経の張り詰めたドライブのために疲れきっていた。もちろん、タニムラさんも私もこのうえもないほど疲労困憊していた。

 ホテルの人が、地下のボイラー室が暖かいのでそこで冷え切った体を温めたらどうかと教えてくれた。

 私たち3人は言われるままにボイラー室に行ったのだが、そこにはいすも何もないガランとした部屋だった。その代わりにこのホテルでは間違いなく一番暖かな部屋だったろう。私たちはいつしか、コンクリートの床にそのまま倒れ込むようにして寝てしまっていた。

 

 翌日、ホテルの人から聞いた話だが、我々をボイラー室に案内した人がしばらくして様子を見に行ってみると、3人が折り重なるように床に倒れているので、酸欠で倒れたのではないかと大騒ぎになったそうである。

 私たちは、そういう騒ぎなど知らずに翌朝までコンクリートの床で寝ていた。

 翌日は、そのせいか、あちらこちらが痛かった。

 

  インド魔術団の日本公演は、その端緒で団長が亡くなるというハプニングがあり、日本人スタッフでは、舞台監督のイワモトさんが厳寒と過密スケジュールのために旭川でおりてしまったということもあったが、最初の予定通り最も寒い時期を北海道のそれも北のほうから攻めて順々に道南へと移動し、3月になると東北・北陸を経て関東へと下っていく、実にクレージーな日程をこなしていったのである。

 

 移動と数々のトラブルに対処しながらの連日の公演にかまけて、アコへの思いも薄れていったのだろう。恋といっても一方的なものであったし、それも一瞬のことだったのかもしれない。