煙が目にしみる

猫と老人の日記

And I Love Her(16)

 島崎さんの家に入るのは初めてである。

 家の中は天井も高く広々としている。入ってすぐのところがレストランとして使われるために普段は4人掛けのテーブルが5つほど置いてあるらしいのだが、きょうはすべて片付けてあり、板張りの床にはエスニック風の柄のカーペットが敷かれていて、そこに参会者は直に座っている。

 

 島崎夫婦は地元の人ではないし、それほど付き合いの広いほうではないと思っていたので、葬式はほとんど家族と友人たちだけで行うものと思っていたのだが、見たことのない男女が既に10人以上座っている。そして、彼らは全員ちゃんと喪服を着ているのだ。もちろん喪主である島崎洋司も息子や娘たちも黒のスーツを着て、祭壇の前に座っている。

 どうやら葉沼くんが司会進行の役らしく、かれも黒のスーツに黒いネクタイの正装である。

 なんだ、普通の葬式だったのか。僕はそう思ってフルモトと顔を見合わせた。

 フルモトはいつものジャンパーにジーンズ。僕も似たような格好で、二人とも完全に浮いている。

 これまでに葬式は何度も経験している。僕は基本的に冠婚葬祭、宴会などは大嫌いで、結婚式にも行かないのだが、直接付き合いのあった人の葬式には極力出ることにしている。

 葬式の案内状には「普段着で」などと書いてあっても、行くと例外なく全員が喪服で参加していることを何度も経験しているのだが、まさか島崎礼子の葬式の参加者がほとんど喪服ということを予想していなかったのだ。

 

 日本の葬礼にはいろんなしきたりがあるらしい。それが必ずしも伝統とは限らない。極めて新しい風習というか、流行も混じっているようだ。

 たとえば、通夜の席には普段着で行ってもいいらしい。そして通夜の香典には薄墨で書くのだそうである。理由は、突然の訃報にあわてて駆け付けたという体裁をとるためである。急な知らせに、あわてて墨を擦り筆を走らせたのでまだ墨も薄く、格好も普段着のままだという意味らしい。

 僕はこの話を聞いて、吹き出してしまった。なんと愚かな、なんとバカバカしい演出なのか。日本の伝統とか習慣というのはここまで愚かなのかと思ったのだ。

 100円均一の店に行くと、薄墨色で既に「御香典」と印刷された香典袋が売ってある。薄墨色の筆ペンも売ってある。形式だけを重んじる日本の伝統芸なのだ。

 いや、正確に言えば形式を重んじているわけでもない、ただ形だけ整えておけばそれでいいという実にいい加減な「伝統」なのだ。

 

 白井治とそういう話をしたことがあった。白井は「そもそも葬式や、寺、坊主という存在自体が、体裁だけで中身のないバカバカしいものなんですよ」と言って笑った。

 しかし、ある知人の葬式で喪服を着て手に数珠を持って神妙な顔をして参列している白井を見て、僕は「日本の伝統」に少なからぬ恐怖を感じたのである。間違えてはいけない。畏怖ではない恐怖を感じたのだ。中身のないからっぽの習慣を、たとえそれがバカバカしいものだと知っていても、人々は真面目くさった顔をして続けているのだ。

 狂気じゃないか。狂気そのものだ。

 浄土真宗の開祖親鸞は「自分が死んだら鴨川に捨てて、魚に食わせろ」と言ったそうだ。別のときには「自分は親の追善供養のために念仏を唱えたことなど一度もない」とも言っている。ところが、その浄土真宗でさえも空っぽの儀式によって大きな収入を得ているのだ。

 僕は自分の父親の葬式のときに、小さな町のことであるから普段から顔見知りの住職が、酒で仕上げた自慢のしゃがれ声を張り上げて「ナンマンダ、ナンマンダ」と叫ぶ様に、思わず笑ってしまったこともあった。「ナンマンダ、ナンマンダ」が、こいつ御布施のことを考えながら「何万だ?何万だ?」と言ってるなと、まるで落語じゃないかと思ったら、笑いをこらえきれなかったのである。