And I Love Her(22)
葬儀屋のハイエースが「フォーンフォーン」とお別れのクラクションを鳴らして動きだした。
葉沼くんがアンプのボリュームを上げると、BOSEのスピーカーから大音量でビートルズの「ドライブ・マイ・カー」が流れ出した。僕は驚いて葉沼くんの顔を見た。
彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「『礼子が好きだった曲をガンガンかけて送ってくれ』って島崎さんから言われてるんですよ」
確かに礼子さんを見送るにはこの曲は似合っていると僕も思う。真っ赤な口紅が似合う女性だった。車も好きだった。島崎さんとは大学生のころからの付き合いで、卒業と同時に結婚。お金を貯めて初めて買った中古車が黄色のフォルクスワーゲンビートル。その車でいろんなところに行ったと話してくれた。
ほんのしばらくだったけど、僕は島崎さんのレストラン「オリーブ」でアルバイトしていたことがある。調理なんか出来ないから、掃除や皿洗いの仕事だった。
金銭的にも精神的にも僕にとって一番苦しい時期だった。
出掛けるにもガソリン代もないという生活だったし、兄や姉にも頼ることも出来ず、それまでの友人とも疎遠になっていた。
保険会社の営業もやってみた。バブルのころだったから、要領良く世間に合わせてやっていける人なら楽に稼げた時代だったかもしれないが、僕には苦痛だった。
財閥系の有名な保険会社だった。東京の研修所で研修も受けた。東京までの往復の飛行機代はもちろん会社で出してくれた。営業所の事務員さんがチケットを取ってくれたのだが、驚いた。その保険会社は全日空の大株主だったから割引きで買えたのだ。
僕は大学を早々に辞めてから、まともな会社で働いたことはない。そういう大きな会社のビジネス事情というものには疎いし、まったく関心もなくそれまで生きてきたのだ。
東京の研修所に来ていた僕以外の連中は、ほとんど地方の地主や資産家のボンボンたちだった。そこで彼らが受けた指導は、保険会社と同系列の銀行から土地を担保に融資を受けてビルを建て、そのビルを貸して収益を得るというやり方であった。もちろんそのビルには保険がかけられる。そのためにお金持ちのボンボンや親族が保険代理店をつくって運営するのである。
僕にはまったく縁の無い話だった。親戚に資産家がいないこともなかったが、ある事情で親戚とも友人とも疎遠になっている時期だったから、そういう人脈に頼るということは土台無理な話だった。
東京での研修は僕にとって無意味だった。地元に帰って、飛び込みの営業をさせられた。毎日が憂鬱だった。年老いた母親は認知症が始まっていて、夜中に徘徊した。
死にたいと思ったことも何度もあったけど、それは無責任だろうと思ったので死ななかった。子供のころから自分のことを無責任な人間だと思っていたのだが、意外だった。小学校の通知表にも「責任感がない」と書かれたこともあったのに。
それで保険会社は逃げるようにして辞めた。
だけど、どうしても現金は要る。水道代も電気代も払わなければならない。子供もいたから学校にもお金がかかるし、もちろん毎日食事しなければ生きてはいけない。
ある日テレビで、電気代が払えない家庭が電気を止められて、子供たちがろうそくで勉強をしていたら、そのろうそくが原因で家事になり焼け死んだというニュースを見た。僕はこらえきれずに声を上げて泣いた。自分たちも似たような状況だったから、その子供たちがかわいそうでならなかったのだ。世の中は株価がいくらになったとか、ニューヨークのビルを日本の企業が買ったとか、保険会社がゴッホの絵を買ったとか、高級車が飛ぶように売れているとか、そういう話でにぎわっているというのに、一方で電気を止められたために子供たちがろうそくで勉強しなきゃいけないのだ。そのために焼け死んだんだ。
ビートたけしが「いまの時代、貧乏な家庭というのは絶滅危惧種だから、貧乏人を見学しに行くという観光旅行が流行るぞ」なんていうバカ話をしているころの話だ。
毎晩大勢の若者がマハラジャやジュリアナ東京でどんちゃん騒ぎをしているころの話だ。
そういうわけで、僕は島崎さんの店でアルバイトを募集していることを知って、「オリーブ」を訪ねたのだ。
礼子さんに「バイトしたいんだけど」と頼むと、ちょっと困惑したような表情を浮かべた。友達を雇うということに抵抗があったようだ。僕にも良く分かる。
そのために関係性が変わってしまうことに抵抗があったのだ。
それでも快諾してくれた。何も訊かれなかったが、うすうす事情は分かっていたのだと思う。
僕が「オリーブ」で働いていたころ、礼子さんはカメラにはまっていた。「オリーブ」のすぐ裏には海が迫っていたので、海の写真も良く撮っていたようだ。周りにはあまり家もなく近くを走る国道沿いに農地が広がっている。道端に咲く小さな花を撮った写真を見せてもらったこともあった。
「礼子さん、ありがとう。また会えるよね」
僕は出て行く黒塗りのハイエースを見送りながらつぶやいた。