Smoke Gets In Your Eyes

猫と煙のお話

And I Love Her(26)

 

 ソーカーさんの魔術団は北関東各県でのショーを終え、東京に戻った。
 東京では共立講堂でテレビ番組の収録があった。それがインド魔術団での僕の最後の仕事だった。
 その後、インド魔術団は韓国で公演する予定になっていた。1971年当時の韓国は朴正熙大統領のころで、ベトナム戦争に軍隊を送っていた。

 韓国では長髪にした若者を見つけて、警察官がバリカンで頭を刈っているといううわさだった。H興行から、韓国公演は現地スタッフは雇わず、このまま日本人スタッフで行いたいという話があった。その準備として長髪の者は散髪してパスポート用の写真を撮ってほしいということであった。
 韓国公演に興味もあったが、髪を切られてまで行きたいとは思わなかった。
 それに、ブラジル公演の話はまだ本決まりではないし、日本人スタッフがブラジルまでついて行くわけでもないと分かったので、僕は東京公演を最後に魔術団の仕事を辞めることにした。魔術団のスタッフだけでなく、K照明の仕事も辞めることにした。
 そのままK照明で働くことも出来たのだが、この先どうするか僕は迷っていた。

 結局、K照明では照明の仕事はしなかったのだが、ステージの仕事は嫌いではなかった。特に、舞台監督としてニシムラさんがやってきてからは、綱場でバランスの崩れた重いバトンをどうやって安全に操作するか、プロのテクニックをいろいろ教わった。
 それまであまり肉体労働をやったことがなかった僕も、魔術団の巡業で体重も増えていたし、筋肉もついていた。
 魔術団の巡業中は食事も宿もついていたので、たばこを買ったりたまに喫茶店に入って珈琲や軽食に使うぐらいでこの仕事を辞めたときには少しばかり手元にお金が残った。僕はその金でなるべく都心から離れたところに部屋を借りることにした。
 なぜ、そこに決めたのか、いまとなっては分からないのだが、小田急線の柿生駅のすぐ近くに住むことになった。

 

 野口さんのアパートに居候していたころから、たまにアルバイトに行っていた会社があった。新橋にある共同リースという小さな会社で、社長は佐賀県出身の人。係長は熊本出身の元警察官。二人いる女性事務員のうち一人は鹿児島出身の人。課長ともう一人の女性事務員だけが地元東京という、ほとんど九州人の会社だった。
 そのアルバイトは野口さんの紹介だった。そのころ野口さんは銀座にあるデザイン事務所で働いていたので、仕事を通じてその会社と付き合いがあったのだ。

 

 新橋の会社に通うには柿生は近くはなかったが、その当時の柿生は本当に何にもない田舎だった。多摩川も近く、とても静かなところだったのでバイト先が遠くても気にはならなかった。そのうち近くに仕事も見つかるだろうぐらいの気持ちで、柿生に住むことにしたのであった。
 小田急柿生駅のすぐ目の前にある自転車屋さんの二階がアパートになっていて、6畳一間の部屋が3室あった。古くて小さなアパートで、6畳の部屋には小さな台所に水道とガスコンロがあって、自炊は出来ないことはなかった。トイレは共用で、風呂はなかったので銭湯に行った。

 

 柿生のアパートから新橋の共同リースに通いはじめてしばらく経ったころ、まだ大学に残っている友人から手紙が来た。大学に残っているといっても研究室に入っているという意味ではない。僕ははやばやと中退してしまったけど、留年しながらも卒業しようとしている友人が何人かいたのだ。
 渡辺という高校時代からの友人からの手紙で、6月15日の「沖縄返還協定粉砕中央闘争」で東京に行くから会いたいという内容だった。

 

 沖縄返還については、このころ各党派で意見が割れていた。もちろん、沖縄が返還されること自体にはほとんどの団体は反対ではなかったし、これまで返還を求める運動も行われていた。それは沖縄の人たち自身が一番望むことであったし、思いは本土の人間としても同じだった。ただ、現実にベトナム戦争と直結する基地を目の前にして日常生活を送り、米軍関係者による交通事故や犯罪が起こるたびに住民の人権は守られないという差別的な扱いに不満が爆発している沖縄現地と、本土ではかなりの温度差があった。前年の1970年12月20日には、やはり交通事故をきっかけにしてコザ暴動が起きていた。沖縄の人たちのことは、一般的に優しい県民性だと思われているが、コザ暴動では怒り狂った住民が米軍の車両をひっくり返し、火を放ち、口々に「タックルセ!」と叫んでいたという。「タックルセ」とは「叩き殺せ」の意味だろうと思う。
 人々の怒りは頂点に達していたということだ。

 

 沖縄県民の望む返還とは、もちろんこういった米軍基地をなくし、本土と同じく日本国憲法にうたわれた基本的人権が守られて、平和で幸福な暮らしを実現出来ることであったはずだ。もともとあの広大な米軍基地は本土のしかも東京周辺にあった基地が沖縄に移転されたものであったし、日本敗戦の間際1945年4月から6月にかけて戦われた沖縄線は、日本本土の弾よけにされたような犠牲を強いられ、敗戦後の日本が復興していく中、まるで忘れ去られたように放置されていたのだから、沖縄県民の胸の内はとても複雑だっただろうと思う。

 

 その沖縄の施政権がいよいよ日本に返還される日が近づいてくるに従って、基地も、もしかしたら基地のどこかにあるという核兵器も、そのままにしての「沖縄返還」ではないのかという疑念が生じた。
 社会党共産党はもちろん核兵器も基地もない沖縄の返還を求めていた。
 一方で、新左翼の各党派はそれぞれ少しずつ違った分析と方針を打ち出していた。
 アメリカは本気で沖縄を返そうとは思っていないので、方針としては「奪還」だという党派。いや、返還は実際に行われるだろうが、それはアメリカに都合の良いように体裁だけの「返還」になるだろうから、政府同士のインチキな返還ではなくて、人民の手で実力で「解放」するのだという党派もあった。
 しかし、沖縄を「奪還」するにしても、「解放」するにしても、その主体が日本政府でなく「人民」だというが、その人民は一体どこにいるのだろうか?
 新左翼の各党派は、沖縄人民と本土の人民が連帯して実現するというが、どのようにして「奪還」や「解放」を実現するつもりだったのだろうか。

 

 これらの議論に飽き足りない一部の若者たちが、さらに過激化して「武装蜂起」によって「革命政権」を樹立し、沖縄の解放も実現するのだという妄想を持ちはじめ、赤軍派が誕生した。
 インド魔術団が北関東公演のために移動中に起きた「真岡銃砲店襲撃事件」も、「武装蜂起」のための銃器を奪おうとして起きたものだった。
 さまざまな矛盾や人々の不満を抱えていたとはいえ、当時の日本とカストロゲバラが少人数の武装勢力で始めたキューバ革命とでは条件も規模もまったく違う。まさに妄想としか思えないのだが、ベトナム反戦運動や大学紛争の高揚期には何万、あるいは何十万という若者たちが結集するという成功体験を持っていたために、運動の渦の中心部に近い連中ほど世の中の現実から懸け離れた妄想を、妄想ではなくて実現可能な未来だと信じてしまったのだろう。


 1971年6月15日、僕は「首都圏制圧」などという妄想集会のために上京する友人に会いに、明治公園に出掛けた。
 すでに明治公園には青や白や赤のヘルメットをかぶった学生たちが、それぞれ隊列をつくって集まっていた。