取り調べが終わって留置場に戻ると、詐欺のおじさんはいなくなっていた。
あとから入ってきた法政大学のA君がひとり座っているだけだった。
おじさんは拘置所に移送されたらしい。
僕が逮捕された翌々日の1971年6月17日、明治公園では「沖縄返還協定粉砕総決起集会」が開かれていた。夜になって中核派などのデモ隊と機動隊が衝突しているさなかに、機動隊に対して鉄パイプ爆弾が投げ入れられたという。
夕方になって、僕たちの房にもう一人若い男が入ってきた。
相撲とりじゃないかと思うくらい体の大きな人で、太いまゆ毛小さな目の優しそうな感じの人だったが、入れ墨と指の欠損でヤクザだとすぐに分かった。
ヤクザのお兄さんは、僕たちにこう言った。
「おまえたちは先につかまったから良かったよ。ゆうべ連れて来られた学生たちは血だらけだったぜ。おまわりに相当殴られたらしい」
「その連中、ここの留置場に入ってるんですか?」
「いいや、ここはもういっぱいだから、また別の警察署につれていかれたよ。おまわりも相当気が立ってたんだよな。なんしろ仲間が爆弾で殺されたんだから」
「え? 警察官が死んだんですか?」
「そうじゃないかな。はらわたが出てたって言うぜ」
警察官が死亡したというのは誤報だった。あとで分かった話では、爆弾を投げたのは赤軍派で、爆発によって2名の機動隊員がはらわたが出るほどの重症を負い、30数名の機動隊員が重軽傷を負ったということであった。
僕自身の取り調べは、たまに呼び出されるのだが、大した質問もされずに世間話のようなものだった。二度目の逮捕で、氏名も身元も分かっているのだからすぐにでも釈放されて良いようなものだが、取り調べの刑事も留置場の看守も「きみは中隊長だろう」とか「二度目はすぐには出られないよ」と言う。取り調べではテレビドラマのようにカツ丼は取ってくれなかった。
結局一月近く留置場にいたわけだが、ひまなので詐欺のおじさんから教わったちり紙を使った梅の盆栽作りにはげんだ。もしかしたら、プロになれるのではないかと思うくらいに上手につくれるようになった。
あとから入ってきたヤクザのお兄さんは、「白のちり紙だけじゃ良いもんはつくれないよ。ピンクとみどりのちり紙が欲しいな」と言った。
「へえ、そんなちり紙があるんですか?」
「ここの売店には売ってないけど、外の大きな店なら置いてあるんだよ」
「そうか。色のついたちり紙使ったらきれいでしょうね」
「おまえたち、もうしばらくしたら出られるから、差し入れしてくれよ」
「すぐに出られるかな?」
「出られるよ。大したことやってねえんだろ?」
「そうですよ。僕なんか巻き添えですよ」
「向こうはさ、おまえたちの組織とかさ、デモとかつぶしたいだけなんだよ。理由はなんだっていいんだ。片っ端から捕まえて入れときゃいいと思ってるんだよ」
やはり、警察と接触の多い世界に住んでいる人たちは、権力が何を考えているのか肌感覚で知っているのだ。
僕は逮捕から23日後に釈放ということになったが、身元引きうけ人が必要だと言われた。鹿児島県出身だという看守の警察官が「東京に身元引きうけ人になってくれる者がいないなら、私がなってやろうか」と親切に言ってくれたのだが、断った。
留置場にいる間、外の情報がなかなか入ってこないので、逮捕される前に会った渡辺のこともずっと気になっていた。
渡辺には東京にチヒロさんというイラストレーターのお兄さんがいて、僕もたまに遊びに行ったりしていたので、彼に身元引きうけ人になってもらうことにした。野口さんに頼んでも良かったのだが、居候でずいぶん世話になっていたし、迷惑をかけたくなかったし、それに渡辺がまだ東京にいるなら会えると思ったからだ。
手続きが終わって、チヒロさんと牛込警察署の外に出ると、もう外は夏だった。
「シゲルくんはまだこっちにいるんですか?」
「シゲルは卒業制作があるからって、九州に帰ったよ」
「そうか、みんな卒業するのか。卒業後はどうするって言ってましたか?」
「ううん、どうするのかな。教職の試験は受けてみるとか言ってたけど」
「そうですか」
「うちでコーヒーでも飲んでくかい?」
「ありがとうございます。久しぶりに飲みたいです」
「佐橋くんを待ってる間にさ、お茶を出してくれたんだけど、指紋採られるのいやだから湯のみとか触ったとこ全部ハンカチで拭いてきたよ」
チヒロさんはいたずらっぽく笑って言った。