Smoke Gets In Your Eyes

猫と煙のお話

And I Love Her(30)

 取り調べが終わって留置場に戻ると、詐欺のおじさんはいなくなっていた。
 あとから入ってきた法政大学のA君がひとり座っているだけだった。
 おじさんは拘置所に移送されたらしい。
 僕が逮捕された翌々日の1971年6月17日、明治公園では「沖縄返還協定粉砕総決起集会」が開かれていた。夜になって中核派などのデモ隊と機動隊が衝突しているさなかに、機動隊に対して鉄パイプ爆弾が投げ入れられたという。


 夕方になって、僕たちの房にもう一人若い男が入ってきた。
 相撲とりじゃないかと思うくらい体の大きな人で、太いまゆ毛小さな目の優しそうな感じの人だったが、入れ墨と指の欠損でヤクザだとすぐに分かった。
 ヤクザのお兄さんは、僕たちにこう言った。
 「おまえたちは先につかまったから良かったよ。ゆうべ連れて来られた学生たちは血だらけだったぜ。おまわりに相当殴られたらしい」
 「その連中、ここの留置場に入ってるんですか?」
 「いいや、ここはもういっぱいだから、また別の警察署につれていかれたよ。おまわりも相当気が立ってたんだよな。なんしろ仲間が爆弾で殺されたんだから」
 「え? 警察官が死んだんですか?」
 「そうじゃないかな。はらわたが出てたって言うぜ」


 警察官が死亡したというのは誤報だった。あとで分かった話では、爆弾を投げたのは赤軍派で、爆発によって2名の機動隊員がはらわたが出るほどの重症を負い、30数名の機動隊員が重軽傷を負ったということであった。

 僕自身の取り調べは、たまに呼び出されるのだが、大した質問もされずに世間話のようなものだった。二度目の逮捕で、氏名も身元も分かっているのだからすぐにでも釈放されて良いようなものだが、取り調べの刑事も留置場の看守も「きみは中隊長だろう」とか「二度目はすぐには出られないよ」と言う。取り調べではテレビドラマのようにカツ丼は取ってくれなかった。
 結局一月近く留置場にいたわけだが、ひまなので詐欺のおじさんから教わったちり紙を使った梅の盆栽作りにはげんだ。もしかしたら、プロになれるのではないかと思うくらいに上手につくれるようになった。

 あとから入ってきたヤクザのお兄さんは、「白のちり紙だけじゃ良いもんはつくれないよ。ピンクとみどりのちり紙が欲しいな」と言った。
 「へえ、そんなちり紙があるんですか?」
 「ここの売店には売ってないけど、外の大きな店なら置いてあるんだよ」
 「そうか。色のついたちり紙使ったらきれいでしょうね」
 「おまえたち、もうしばらくしたら出られるから、差し入れしてくれよ」
 「すぐに出られるかな?」
 「出られるよ。大したことやってねえんだろ?」
 「そうですよ。僕なんか巻き添えですよ」
 「向こうはさ、おまえたちの組織とかさ、デモとかつぶしたいだけなんだよ。理由はなんだっていいんだ。片っ端から捕まえて入れときゃいいと思ってるんだよ」

 やはり、警察と接触の多い世界に住んでいる人たちは、権力が何を考えているのか肌感覚で知っているのだ。


 僕は逮捕から23日後に釈放ということになったが、身元引きうけ人が必要だと言われた。鹿児島県出身だという看守の警察官が「東京に身元引きうけ人になってくれる者がいないなら、私がなってやろうか」と親切に言ってくれたのだが、断った。
 留置場にいる間、外の情報がなかなか入ってこないので、逮捕される前に会った渡辺のこともずっと気になっていた。

 渡辺には東京にチヒロさんというイラストレーターのお兄さんがいて、僕もたまに遊びに行ったりしていたので、彼に身元引きうけ人になってもらうことにした。野口さんに頼んでも良かったのだが、居候でずいぶん世話になっていたし、迷惑をかけたくなかったし、それに渡辺がまだ東京にいるなら会えると思ったからだ。


 手続きが終わって、チヒロさんと牛込警察署の外に出ると、もう外は夏だった。
 「シゲルくんはまだこっちにいるんですか?」
 「シゲルは卒業制作があるからって、九州に帰ったよ」
 「そうか、みんな卒業するのか。卒業後はどうするって言ってましたか?」
 「ううん、どうするのかな。教職の試験は受けてみるとか言ってたけど」
 「そうですか」
 「うちでコーヒーでも飲んでくかい?」
 「ありがとうございます。久しぶりに飲みたいです」
 「佐橋くんを待ってる間にさ、お茶を出してくれたんだけど、指紋採られるのいやだから湯のみとか触ったとこ全部ハンカチで拭いてきたよ」
 チヒロさんはいたずらっぽく笑って言った。

 

 

And I Love Her(29)

   1971年6月18日。
 僕は朝の体操の時間に取調室に呼び出された。黙秘するつもりだったから、別に話すこともないし、それに体操の時間にたばこが吸えるのだが、その楽しみを奪われたのも面白くなかった。
 しぶしぶと出ていく僕に、詐欺師のおじさんは「いいなあ、これから調べだと昼飯おごってもらえるぞ。うまいもん食って来いよ」と声をかけてきた。
 「ゆうべはカツ丼食べてきたんですか?」と、僕は昨夜聞こうと思って忘れていたことを尋ねた。
 「おお。特上のカツ丼食わせてもらったよ」と言っておじさんは笑っている。
 でも、おじさんは根っからの詐欺師なのだ。どこまで本当なのか分からない。うそと本当がモザイク模様のように入り交じっていて、よほど注意していないとだまされてしまいそうだ。

 

 取調室はテレビの刑事ドラマにそっくりの狭い薄暗い部屋だった。
 机の前にはげ上がった小太りの刑事が座っていた。その脇に痩せて目つきの悪い刑事が立っている。
 座っているほうの刑事は50歳前後。立っている痩せたほうはまだ30代ぐらいだろう。
 僕は年上のほうの刑事に促されて、向かい合う形で机の前に座った。
 「君は長崎から出て来たのかい?」小太りの刑事が尋ねた。
 「………………」僕は黙っていた。
 「前にも逮捕されてるだろう。調べはついてるんだよ」若いほうの刑事が意地悪く言い放った。

 実は、逮捕されたのはこのときが初めてではなかった。その3年前に逮捕されていたのである。


 全学連大会に参加しないかと先輩から誘われて、夏休みに中央大学の講堂で開かれた三派全学連の全国大会に参加したのだ。全学連全日本学生自治会総連合)は当時3つあった。共産党に指導されていた民青系の全学連革マル派全学連、それに中核派社学同マル戦派・社青同解放派の三派全学連があったのだが、三派全学連のほうは主導権争いや内部対立が激しくて、離合集散を繰り返していた。
 僕が参加した1968年の夏休みに開催された全学連大会では、三派全学連から路線対立のために中核派が抜け出て、社会主義学生同盟(ブント)と反帝学評(社青同解放派)と第四インターによる反帝全学連が結成された。
 このとき、やはり会場内の場所とりや主導権争いによるものと思うが、赤ヘルメットのブントがいきなり準備していた竹ざおで青ヘルメットの反帝学評を攻撃して、会場から閉め出した。


 僕は青いヘルメットをかぶって反帝学評のグループにいたのだが、なぜそういう状況になったのか分からなかった。分からなかったが、とにかくケガをしたくないので、逃げた。
 会場の外に出ると青ヘルメットの反帝学評は、明治大学に移動するというのでそちらに行った。
 このころ中央大学も神田にあったので、明治大学までは近かった。
 明治大学に移動すると、赤いヘルメットの頭頂部に白い線が入った、いわゆるモヒカンヘルメットをかぶった連中が結集していた。社学同ML派と呼ばれるグループだった。MLはマルクスレーニンの頭文字なのだが、彼らは毛沢東派と呼ばれるほど、毛沢東に傾倒していた。

 

 彼らは新左翼の中でも武闘派として知られていた。内ゲバといってもまだ角材や竹ざおで殴り合いをしているときだったが、明治大学に結集していたML派は全員鉄パイプを手にしていた。その鉄パイプで足元のコンクリートを「カチーン、カチーン」と打ち鳴らしながら「〇〇ぶっころせ!」と敵対する党派への呪詛を唱和しているので、実にぶっそうな連中だと思った。

 

 まあ、そういう内ゲバ騒ぎのさなかに僕の第一回目の逮捕は行われたわけである。

 当時の学生言葉に「ショーモーする」という慣用句があった。「ショーモーする」は「消耗する」という意味である。「つまらないことにエネルギーを使ってしまった」というようなニュアンスのなげきの言葉である。

 日ごろ「70年安保粉砕」とか「沖縄解放」とか「ベトナム戦争反対」とか言っていながら、全国の大学自治会の代表が集まって集会の指導権を誰がとるかとか、新たに結成される「反帝全学連」の執行部役員をどの党派がとるかとか、そういうことで衝突を繰り返し、警察に介入するチャンスを与えて大勢の逮捕者を出す。そういうことの繰り返しにしか僕には思えなかったので、本当に「ああ、ショーモーだな」という気分にならざるを得なかったのである。

 

 取調室の話に戻ると、痩せて人相の悪い若いほうの刑事がドスのきいた声で言った。

 「佐橋くん。大学はもう辞めちゃったのかね?」

 僕は黙っていた。左翼の運動にもショーモーしてゲンナリしていたが、だからと言って彼らに話すことなど何もないからだ。

 「きみたち、早く捕まって良かったよ。昨日の集会に出ていたら大変だったかもしれないね」

 僕にはその言葉の意味が分からなかった。

 年輩のほうの刑事が説明してくれた。

 「きのうの明治公園での集会でね、爆弾投げた連中がいたんだ」


 

And I Love Her(28)

 明治公園で逮捕された学生たちと一緒に僕は警察署に連行された。

 着いたところは新宿の牛込警察署だった。

 名前や住所を聞かれたが黙秘した。指紋を採られて、写真を撮影されると留置場に入れられた。

 留置場は扇型になっていて、確か4つぐらい房があったのではないだろうか。

 扇の要のところに看守が座っていて、各房を見張っていた。

 

 僕が入れられた房には先客が一人いて、薄暗い房の床にあぐらをかいて座っていた。目が慣れてくると、しだいに顔が分かった。40歳ぐらいのシワの多い顔の人で、テレビで司会をやっている桂小金治に良く似ていた。

 桂小金治に似たおじさんが小声で僕に言った。

 「そのシャツ脱ぎなよ。これ貸してやるよ」

 おじさんは、自分の着替えなのか、白い肌着を貸してくれた。

 明治公園で逮捕されたとき、僕は上は白のワイシャツで、Gパンをはいていたのだが、脱いでみたらワイシャツの背中がかなり広く血で染まっていた。血で汚れていただけでなく、縦に裂けていた。留置場に入れられるまで気が付かなかった。

 僕がケガをしていたわけではないので、誰かの血が付いたのだ。

 逃げ道を求めて押し合いになっていたとき、内ゲバの乱闘でケガをした誰かが僕の後ろにいたのだろう。

 小金治に似たおじさんは、僕がケガをしていると思ったらしい。案外、親切なおじさんのようだ。

 

 翌日、おじさんと僕の房に新人が一人入ってきた。髪を長く伸ばした若者で、一見して学生と分かる。僕が話し掛けても房の隅にうずくまって返事もしない。逮捕されたショックなのだろうか。

 その次の日6月17日の夜のことだった。桂小金治に似たおじさんは実は詐欺師で、取り調べのために連れて行かれたので、房の中には僕と新入りの学生の二人きりだった。

 「あなたも、明治公園の集会に出ていたんですね」学生が小声で僕に言った。

 「うん。でも、どっちかというと野次馬に近いけどね」と僕は自嘲気味に答えた。

 「僕、最初入ってきたときにあなたのことを婦女暴行か何かで捕まった人かと思ってました」

 「失礼な。それで口をきいてくれなかったのか」

 髪が長いというのが、反体制反権力のシンボルというのが当時の風潮であったから、短髪にしている僕は一般人、それもちょっと危ない人と思われたらしい。まあ、そういう左翼のステレオタイプな発想から抜け出そうと思って角刈りにしてもらったのだから、別にかまわないけどね。

 

 詐欺師の小金治さんの取り調べは、結構長びいているらしい。

 「あの、詐欺のおじさん、カツ丼取ってもらってるんでしょうか?」学生がニヤニヤしながら聞いてきた。

 「そうかもしれんね。でも、あのおじさんなかなか本当のことしゃべらないだろう」

 詐欺師の小金治さんのことを、僕が本物の詐欺師だと感じたのは、彼の変わり身の速さに気が付いたときだった。

 普段はとても親切なおじさんだった。最初に僕の血染めのシャツに気が付いて、着替えを貸してくれたときもそうだったし、留置場でのしきたりのようなことを教えてくれたり、ひまな時間はどうつぶせば良いかなども教えてくれた。

 差し入れのちり紙でこよりを作って、それで小さな梅の盆栽のようなものをつくることも教えてくれた。これは刑務所に入ったものはたいてい知っているそうで、隣の房にいるヤクザ者の青年をバカにして「あいつは少年院上がりだからさ、梅の花びらを4枚しかつくらないんだよ。学がねえんだよな」と言った。

 そのおじさんが、僕と話しているときは実に親身になって話をしているのだけど、看守が近くに来ると、ガラッと態度を変えて「看守さん、こいつ出身は長崎のほうらしいですよ」などと、僕から知った情報を伝えるのである。

 二重人格ではないかと思えるほど、一瞬にして態度が変わるのだ。

 そのことがあってから、僕はおじさんに自分のことについては話さないことにしていた。

 

 夜、消灯の時間になって、おじさんは帰ってきた。

 「何か大事件でもあったらしいよ。おまわりが大騒ぎしてたよ」

 その日何があったのかは、翌朝になって分かった。

 

 

And I Love Her(27)

 会場を埋め尽くすほどの学生たちの中から、僕は友人の渡辺を探した。

 新左翼の各党派は全国の大学に動員をかけていたので、久しぶりに大勢の学生が集まっていた。セクトの機関紙では「数万のプロレタリア戦士が首都に結集した」という表現になるのだろうが、実際には数千人という規模だった。 

 渡辺は青のヘルメットをかぶった一群の中にいた。こちら側で見つけるのとほぼ同時に渡辺のほうも僕を見つけてくれた。

 「よお。久しぶり」

 渡辺がかぶった青いヘルメットには白ペンキで「芸行委」と書かれている。

 「『芸行委』ってなんだよ?」

 「ああ、これか。芸術祭行動委員会だ」

 「芸術祭行動委員会? 学園祭じゃないの?」

 「学園祭は民青に取られてつまらんイベントになってしまった。だからおれたちは演劇部を中心に芸術祭をやることにしたんだよ」

 「へえ、そういうことか。ところで、みんな元気?」

 「元気にしてるよ。そうそう。ミカちゃんに赤ちゃんが産まれたよ」

 「そうか。松本もオヤジになったのか」

 「ところで、佐橋はずいぶん髪短くなったな」

 

 僕はその数日前に、床屋に行って頭を職人のように短く刈り上げてもらっていた。パスポートのために長髪を切れと言われて、K照明を辞めたのだが、共同リースの社長から営業職として正社員にならないかと誘われて、思い切って短くしたのだ。

 極端な角刈りにしてもらったのは、学生気分から抜け出したかったのと、高倉健の映画から影響を受けたせいかもしれない。

 髪を切った翌日、共同リースに出社すると、みんなニヤニヤして僕を見ていた。

 社長は笑いながら「いやあ、ずいぶん短くしたねえ。そこまでやらなくてもいいのに」と言った。

 「いや、それぐらいが良いですよ。佐橋くん、似合ってるよ」機動隊出身の係長はうれしそうに言った。

 

 「またあとでゆっくり話そう」そう言って渡辺は青ヘルメットの隊列に戻った。

 集会で各党派や大学の代表のあいさつというか紋切り型のアジテーションが終わるとデモに出るらしい。僕はデモに参加するつもりはないから、少し離れたところで野次馬として見物することにした。

 ところが、そのとき会場の真ん中辺りで小競り合いが起きたらしくきちんと並んでいた青や白や赤の隊列が崩れて動き始めた。

 何が原因だったのか分からないが、白ヘルメットと青ヘルメットの連中が竹ざおでバチンバチンとたたき合いを始めたのだ。

 そのうち、白ヘルメットのほうから石やコーラの瓶が飛んで来るようになった。

 白ヘルメットのほうが圧倒的に数が多く、青ヘルメット部隊は押し出されるようにして会場の端のほうへ移動しようとしていた。

 僕も危ないので公園から道路のほうに出ようとした。それまで気が付かなかったが会場周辺はおびただしい数の機動隊員によって包囲されていた。

 指揮車のスピーカーから何か言っているが、激しくなってきた内ゲバのために良く聞き取れない。

 青ヘルメットの隊列が崩れて、会場から外に出ようと駆け出す者が大勢出てきた。転倒する者もいて、大変危険な状況になっている。

 

 僕の目の前でも女子学生が押したおされそうになっている。

 僕は彼女を引き起こして、多数の学生たちが逃げようとしているのと別の出口を教えてやった。そのとき後ろから誰かに抱き付かれた。腕や背中に当たる感触で、それが乱闘服を着た機動隊員だと分かった。

 

 こうして僕は内ゲバのとばっちりで逮捕された。

 警察にしてみれば、とばっちりだろうが野次馬だろうが、そんなことは関係なかった。会場に集まっている連中はすべて過激な暴力学生である。全部逮捕してぶちこめば一件落着なのだ。

 

 

 

 

And I Love Her(26)

 

 ソーカーさんの魔術団は北関東各県でのショーを終え、東京に戻った。
 東京では共立講堂でテレビ番組の収録があった。それがインド魔術団での僕の最後の仕事だった。
 その後、インド魔術団は韓国で公演する予定になっていた。1971年当時の韓国は朴正熙大統領のころで、ベトナム戦争に軍隊を送っていた。

 韓国では長髪にした若者を見つけて、警察官がバリカンで頭を刈っているといううわさだった。H興行から、韓国公演は現地スタッフは雇わず、このまま日本人スタッフで行いたいという話があった。その準備として長髪の者は散髪してパスポート用の写真を撮ってほしいということであった。
 韓国公演に興味もあったが、髪を切られてまで行きたいとは思わなかった。
 それに、ブラジル公演の話はまだ本決まりではないし、日本人スタッフがブラジルまでついて行くわけでもないと分かったので、僕は東京公演を最後に魔術団の仕事を辞めることにした。魔術団のスタッフだけでなく、K照明の仕事も辞めることにした。
 そのままK照明で働くことも出来たのだが、この先どうするか僕は迷っていた。

 結局、K照明では照明の仕事はしなかったのだが、ステージの仕事は嫌いではなかった。特に、舞台監督としてニシムラさんがやってきてからは、綱場でバランスの崩れた重いバトンをどうやって安全に操作するか、プロのテクニックをいろいろ教わった。
 それまであまり肉体労働をやったことがなかった僕も、魔術団の巡業で体重も増えていたし、筋肉もついていた。
 魔術団の巡業中は食事も宿もついていたので、たばこを買ったりたまに喫茶店に入って珈琲や軽食に使うぐらいでこの仕事を辞めたときには少しばかり手元にお金が残った。僕はその金でなるべく都心から離れたところに部屋を借りることにした。
 なぜ、そこに決めたのか、いまとなっては分からないのだが、小田急線の柿生駅のすぐ近くに住むことになった。

 

 野口さんのアパートに居候していたころから、たまにアルバイトに行っていた会社があった。新橋にある共同リースという小さな会社で、社長は佐賀県出身の人。係長は熊本出身の元警察官。二人いる女性事務員のうち一人は鹿児島出身の人。課長ともう一人の女性事務員だけが地元東京という、ほとんど九州人の会社だった。
 そのアルバイトは野口さんの紹介だった。そのころ野口さんは銀座にあるデザイン事務所で働いていたので、仕事を通じてその会社と付き合いがあったのだ。

 

 新橋の会社に通うには柿生は近くはなかったが、その当時の柿生は本当に何にもない田舎だった。多摩川も近く、とても静かなところだったのでバイト先が遠くても気にはならなかった。そのうち近くに仕事も見つかるだろうぐらいの気持ちで、柿生に住むことにしたのであった。
 小田急柿生駅のすぐ目の前にある自転車屋さんの二階がアパートになっていて、6畳一間の部屋が3室あった。古くて小さなアパートで、6畳の部屋には小さな台所に水道とガスコンロがあって、自炊は出来ないことはなかった。トイレは共用で、風呂はなかったので銭湯に行った。

 

 柿生のアパートから新橋の共同リースに通いはじめてしばらく経ったころ、まだ大学に残っている友人から手紙が来た。大学に残っているといっても研究室に入っているという意味ではない。僕ははやばやと中退してしまったけど、留年しながらも卒業しようとしている友人が何人かいたのだ。
 渡辺という高校時代からの友人からの手紙で、6月15日の「沖縄返還協定粉砕中央闘争」で東京に行くから会いたいという内容だった。

 

 沖縄返還については、このころ各党派で意見が割れていた。もちろん、沖縄が返還されること自体にはほとんどの団体は反対ではなかったし、これまで返還を求める運動も行われていた。それは沖縄の人たち自身が一番望むことであったし、思いは本土の人間としても同じだった。ただ、現実にベトナム戦争と直結する基地を目の前にして日常生活を送り、米軍関係者による交通事故や犯罪が起こるたびに住民の人権は守られないという差別的な扱いに不満が爆発している沖縄現地と、本土ではかなりの温度差があった。前年の1970年12月20日には、やはり交通事故をきっかけにしてコザ暴動が起きていた。沖縄の人たちのことは、一般的に優しい県民性だと思われているが、コザ暴動では怒り狂った住民が米軍の車両をひっくり返し、火を放ち、口々に「タックルセ!」と叫んでいたという。「タックルセ」とは「叩き殺せ」の意味だろうと思う。
 人々の怒りは頂点に達していたということだ。

 

 沖縄県民の望む返還とは、もちろんこういった米軍基地をなくし、本土と同じく日本国憲法にうたわれた基本的人権が守られて、平和で幸福な暮らしを実現出来ることであったはずだ。もともとあの広大な米軍基地は本土のしかも東京周辺にあった基地が沖縄に移転されたものであったし、日本敗戦の間際1945年4月から6月にかけて戦われた沖縄線は、日本本土の弾よけにされたような犠牲を強いられ、敗戦後の日本が復興していく中、まるで忘れ去られたように放置されていたのだから、沖縄県民の胸の内はとても複雑だっただろうと思う。

 

 その沖縄の施政権がいよいよ日本に返還される日が近づいてくるに従って、基地も、もしかしたら基地のどこかにあるという核兵器も、そのままにしての「沖縄返還」ではないのかという疑念が生じた。
 社会党共産党はもちろん核兵器も基地もない沖縄の返還を求めていた。
 一方で、新左翼の各党派はそれぞれ少しずつ違った分析と方針を打ち出していた。
 アメリカは本気で沖縄を返そうとは思っていないので、方針としては「奪還」だという党派。いや、返還は実際に行われるだろうが、それはアメリカに都合の良いように体裁だけの「返還」になるだろうから、政府同士のインチキな返還ではなくて、人民の手で実力で「解放」するのだという党派もあった。
 しかし、沖縄を「奪還」するにしても、「解放」するにしても、その主体が日本政府でなく「人民」だというが、その人民は一体どこにいるのだろうか?
 新左翼の各党派は、沖縄人民と本土の人民が連帯して実現するというが、どのようにして「奪還」や「解放」を実現するつもりだったのだろうか。

 

 これらの議論に飽き足りない一部の若者たちが、さらに過激化して「武装蜂起」によって「革命政権」を樹立し、沖縄の解放も実現するのだという妄想を持ちはじめ、赤軍派が誕生した。
 インド魔術団が北関東公演のために移動中に起きた「真岡銃砲店襲撃事件」も、「武装蜂起」のための銃器を奪おうとして起きたものだった。
 さまざまな矛盾や人々の不満を抱えていたとはいえ、当時の日本とカストロゲバラが少人数の武装勢力で始めたキューバ革命とでは条件も規模もまったく違う。まさに妄想としか思えないのだが、ベトナム反戦運動や大学紛争の高揚期には何万、あるいは何十万という若者たちが結集するという成功体験を持っていたために、運動の渦の中心部に近い連中ほど世の中の現実から懸け離れた妄想を、妄想ではなくて実現可能な未来だと信じてしまったのだろう。


 1971年6月15日、僕は「首都圏制圧」などという妄想集会のために上京する友人に会いに、明治公園に出掛けた。
 すでに明治公園には青や白や赤のヘルメットをかぶった学生たちが、それぞれ隊列をつくって集まっていた。

 

 

And I Love Her(25)

 インド魔術団の一行は北海道での公演を終え、2月に入ると東北各県を巡り徐々に南下していった。

 現地旭川のドライバー大石さんは函館公演でお別れして、本州はH興行の立川さんがもう一台のトラックを運転することになった。トラックも8トンから4トンに替わった。僕とタニムラさんの乗る11トン車はそのままだった。

 北海道はH興行の地元なので、かなり力を入れて小さな町までくまなく公演を行ったので、積んで行く道具類も多かったのだ。照明器具や幕などない学校の体育館や公民館でも公演を行った。暖房機もない会場には大型の暖房機も運び込まなければならなかった。東北での公演予定地はほとんど県庁所在地であり、設備の整った会場ばかりだった。必要のない機材類は別便で東京へと送り返された。

 北海道最後の公演地、函館は大きな町であり、きっと立派な会場だと僕たちは思っていた。ところが着いてみると、公会堂ではなくて古い映画館だった。

 仕込みのときに舞台を見て、あの穏やかなソーカーさん(途中から引き継いだジュニアのほうです)は怒った。「電気ナーイ! バトンナーイ! デキマセーン」とステージの上で会場を見回しながら声を荒げた。

 僕はドロップカーテンの担当だったので、最初に綱場を見に行ったのだが、驚いた。天井からつるされているのは鋼管のバトンではなくてロープにくくり付けられた竹竿であった。これでは照明器具どころか、幕の重量にも耐えられないだろう。

 最悪の条件だった。小学校の体育館で鉄パイプを吊して最低限の照明器具と背景幕を吊したことがあったが、この映画館のステージはあまりにも狭く、天井も低かった。

 もしかしたら、函館公演は中止になるのではないかと思った。

 前任者のイワモトさんなら、「こんなのやってらんないよ」と言って放り出したかもしれないが、舞台監督を引き継いだニシムラさんは「零下50度のシベリア公演を経験している」と豪語するようなつわものだから、「おい、すのこにあがって吊せるものだけ吊そう」と速断即決で仕込みを始めた。
 ニシムラさんがはしごを登って舞台天井のすのこに上ると、ドサッと音がして何か黒いものが落ちてきた。もちろんニシムラさんではない。大量のほこりが落ちてきたのだ。

 僕たち日本人スタッフが照明機材や背景幕の準備をしている間に、ソーカーさんとデイさんが話し合っていたが、どうやらいくつかの演目をカットして上演を決行することになったようだ。

 段取りが決まり、プログラムに必要な大道具類の場所決めや、補強した仮設バトンに最低限の幕を吊り終わると、ソーカーさんも安心したのか、「インドの田舎と比べるとまだましなほうです」と笑いながら言った。

 

 1971年2月17日栃木県真岡市の銃砲店が過激派によって襲撃され、猟銃が強奪された。

 そのころ、僕たちは東北公演から北関東へと向かっていた。

 主要な道路では検問が行われた。

 「検問に引っ掛かるかもしれませんね」と僕が言うと、タニムラさんは「『後ろに大砲積んでます』って言おうか」と冗談を言って笑った。

 確かに11トントラックの荷台には、マジックで使う大砲を積んでいた。色鮮やかにペイントされたブリキで出来た大砲である。

 「人間大砲」という演目で用いられる道具なのだ。少女が筒口から大砲の中に入り、ソーカーさんの「3、2、1、ファイアー」という掛け声とともに大砲から爆音と煙が出て、客席の後ろにライトがあたるとそこには先ほど大砲に入っていった少女が現れるというマジックである。

 種明かしをすると、大砲に入る少女と客席に現れる少女は別人なのだ。しかし、客席は暗く、ステージは遠い。やせた小柄なインド人の少女たちの区別など初めて見る観客には出来ない。それも爆音や、強いライトなどで演出されていて、客席から見ると一瞬にして少女が移動したように思えてしまうのだ。

 

 こういう演目が多いので、やせて小柄な少女たちが適役として用いられていた。

 あるときニモールがこっそり教えてくれたことがある。絶対にこれは秘密だと念をおした。魔術団の少女たちの年齢はパスポートには全員20歳と記載されているという。

 しかし、実際は12歳~14歳ぐらいらしい。その全員が東パキスタンからの難民の子供たちだという。旭川で急死した父親のほうのソーカーさんが自分の子供のように面倒を見ていた少女たちだ。ソーカーさんが亡くなったときに棺にすがって「一緒にカルカッタに帰りたい」と泣きじゃくっていたのも、それを聞くと無理もない話だと思った。

 

 栃木県に入るとき、確かに検問にあった。物々しい雰囲気に気おされてタニムラさんも僕も「後ろに大砲積んでます」とは言えなかった。

 「インド魔術団のステージ用の荷物です」とだけ言った。警察官もインド魔術団の公演があることは知っていて、「ちょっと見せてもらいます」と荷台に掛けられたシートをめくって見ただけで、全部の荷物を点検することもなくすぐに通してくれた。

 

And I Love Her(24)

 僕は香盆から立ち上る紫色の煙を見ながら、昨夜机の引き出しから出て来た古い一枚の絵はがきのことを考えていた。

 ーー北海道もあの時の寒さを忘れたように毎日ポカポカいいお天気です。

 ーー東京の世界に帰ってしまったお兄ちゃんも元気のようですね。

 ーーアコは昨日ボサボサに伸びたひどい頭を又短く切り捨てました。

 ーー広々とした牧場のようにさわやかです。   akiko

 

 まだ使っていない香典袋があったはずだと思い、あちらこちら探していて、机の引き出しの中から見覚えのない絵はがきが出て来たのである。

 あて先は「東京都世田谷区松原〇〇〇三陽アパート 野口サトル様方 佐橋真一様」とある。確かに、昔先輩のアパートに居候していたころの僕にあてたものだ。

 差出人は「北海道旭川市〇〇2条2丁目 川口章子」となっている。

 ああ、あのアコちゃんからのはがきだ。でも、覚えていないのだ。僕はアコのことが好きだったはずなのに、なぜこのはがきのことを覚えていないのだろう。

 「ボサボサに伸びたひどい頭を又短く切り捨てました」

 いかにもアコらしい表現だけど、僕が覚えているアコはポニーテールだった。

 ずいぶん昔のことだから、僕の記憶があいまいになってしまっているのだろうか。

 

 すべてがぼんやりとして、紫の煙の向こうにかすんでしまっている。

 既成の絵はがきだと思ったが、良く見てみると違うようだ。

 広々とした牧場に草を食む牛がいる。その向こうに牧舎があり、大きな木が並んでいて、さらにその向こうには青くかすむ山脈が描かれている。

 いかにも北海道らしい雄大な景色がボールペンと色えんぴつで描かれているのだ。

 覚えてはいないけど、この川口章子から届いたはがきを机の奥深くにしまっていたということは、間違いなく読んだはずなのだ。

 

 ソーカーさんの魔術団の北海道公演が終わって、僕は東京に戻った。その後アコとは会っていない。

 アコとは、東京から電話や手紙のやりとりをしたのだろうか。まったく覚えていないのだ。

 川口章子、その当時20歳のアコがくれたはがきの文字もきれいだし、ちょっちょっと描いたらしい牧場のイラストも北海道の雰囲気が良く出ていて上手だ。

 このはがきを受け取ったころ、僕は何をしていたのだろうか。

 

 消印は薄れて消え掛かっているのだが、目をこらして見るとかすかに46.6という日付が見える。昭和46年6月の消印。1971年6月。

 昨夜からずっとそのはがきのことが頭から離れない。礼子さんの葬儀の間もずっとあのはがきに見覚えがないのはなぜだろうと考えていた。

 1971年6月、そのころ僕は何をしていたのだろうか。