煙が目にしみる

猫と老人の日記

And I Love Her(22)

 葬儀屋のハイエースが「フォーンフォーン」とお別れのクラクションを鳴らして動きだした。

 葉沼くんがアンプのボリュームを上げると、BOSEのスピーカーから大音量でビートルズの「ドライブ・マイ・カー」が流れ出した。僕は驚いて葉沼くんの顔を見た。

 彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。

 「『礼子が好きだった曲をガンガンかけて送ってくれ』って島崎さんから言われてるんですよ」

 確かに礼子さんを見送るにはこの曲は似合っていると僕も思う。真っ赤な口紅が似合う女性だった。車も好きだった。島崎さんとは大学生のころからの付き合いで、卒業と同時に結婚。お金を貯めて初めて買った中古車が黄色のフォルクスワーゲンビートル。その車でいろんなところに行ったと話してくれた。

 

 ほんのしばらくだったけど、僕は島崎さんのレストラン「オリーブ」でアルバイトしていたことがある。調理なんか出来ないから、掃除や皿洗いの仕事だった。

 金銭的にも精神的にも僕にとって一番苦しい時期だった。

 出掛けるにもガソリン代もないという生活だったし、兄や姉にも頼ることも出来ず、それまでの友人とも疎遠になっていた。

 

 保険会社の営業もやってみた。バブルのころだったから、要領良く世間に合わせてやっていける人なら楽に稼げた時代だったかもしれないが、僕には苦痛だった。

 財閥系の有名な保険会社だった。東京の研修所で研修も受けた。東京までの往復の飛行機代はもちろん会社で出してくれた。営業所の事務員さんがチケットを取ってくれたのだが、驚いた。その保険会社は全日空の大株主だったから割引きで買えたのだ。

 僕は大学を早々に辞めてから、まともな会社で働いたことはない。そういう大きな会社のビジネス事情というものには疎いし、まったく関心もなくそれまで生きてきたのだ。

 東京の研修所に来ていた僕以外の連中は、ほとんど地方の地主や資産家のボンボンたちだった。そこで彼らが受けた指導は、保険会社と同系列の銀行から土地を担保に融資を受けてビルを建て、そのビルを貸して収益を得るというやり方であった。もちろんそのビルには保険がかけられる。そのためにお金持ちのボンボンや親族が保険代理店をつくって運営するのである。

 僕にはまったく縁の無い話だった。親戚に資産家がいないこともなかったが、ある事情で親戚とも友人とも疎遠になっている時期だったから、そういう人脈に頼るということは土台無理な話だった。

 

 東京での研修は僕にとって無意味だった。地元に帰って、飛び込みの営業をさせられた。毎日が憂鬱だった。年老いた母親は認知症が始まっていて、夜中に徘徊した。

 死にたいと思ったことも何度もあったけど、それは無責任だろうと思ったので死ななかった。子供のころから自分のことを無責任な人間だと思っていたのだが、意外だった。小学校の通知表にも「責任感がない」と書かれたこともあったのに。

 それで保険会社は逃げるようにして辞めた。

 だけど、どうしても現金は要る。水道代も電気代も払わなければならない。子供もいたから学校にもお金がかかるし、もちろん毎日食事しなければ生きてはいけない。

 

 ある日テレビで、電気代が払えない家庭が電気を止められて、子供たちがろうそくで勉強をしていたら、そのろうそくが原因で家事になり焼け死んだというニュースを見た。僕はこらえきれずに声を上げて泣いた。自分たちも似たような状況だったから、その子供たちがかわいそうでならなかったのだ。世の中は株価がいくらになったとか、ニューヨークのビルを日本の企業が買ったとか、保険会社がゴッホの絵を買ったとか、高級車が飛ぶように売れているとか、そういう話でにぎわっているというのに、一方で電気を止められたために子供たちがろうそくで勉強しなきゃいけないのだ。そのために焼け死んだんだ。

 ビートたけしが「いまの時代、貧乏な家庭というのは絶滅危惧種だから、貧乏人を見学しに行くという観光旅行が流行るぞ」なんていうバカ話をしているころの話だ。

 毎晩大勢の若者がマハラジャジュリアナ東京どんちゃん騒ぎをしているころの話だ。

 そういうわけで、僕は島崎さんの店でアルバイトを募集していることを知って、「オリーブ」を訪ねたのだ。

 礼子さんに「バイトしたいんだけど」と頼むと、ちょっと困惑したような表情を浮かべた。友達を雇うということに抵抗があったようだ。僕にも良く分かる。

 そのために関係性が変わってしまうことに抵抗があったのだ。

 それでも快諾してくれた。何も訊かれなかったが、うすうす事情は分かっていたのだと思う。

 僕が「オリーブ」で働いていたころ、礼子さんはカメラにはまっていた。「オリーブ」のすぐ裏には海が迫っていたので、海の写真も良く撮っていたようだ。周りにはあまり家もなく近くを走る国道沿いに農地が広がっている。道端に咲く小さな花を撮った写真を見せてもらったこともあった。

 「礼子さん、ありがとう。また会えるよね」

 僕は出て行く黒塗りのハイエースを見送りながらつぶやいた。

 

And I Love Her(21)

 司会進行は葉沼くんがやったのだが、一応葬儀屋さんも来ていたらしく、祭壇の前に置かれていた礼子さんの棺を黒服の男たちが抱えて、部屋の中央に置いた。

 「お別れの時間となりました。名残惜しいですが、皆さんどうぞ故人の周りにお集まりください」葉沼くんが言い終わらないうちに、あちらこちらですすり泣きが始まった。ほとんど僕の知らない人たちだ。礼子さんの親戚の人たちなんだろうか。

 その人たちはハンカチで涙を拭いながら棺の周りに集まって来た。代わる代わる棺の中の礼子さんを覗き込んで、「礼子ちゃん、あたしももうすぐそっちに行くからね」とか「礼子さん、今まで仲良くしてくれてありがとう」とか、「お疲れさまでした。安らかにね」とか声を震わせながら言っている。

 「礼子、おれより先に逝っちゃダメじゃないか」というだみ声が聞こえてきた。かっぷくのいい白髪頭の男性が棺の中に顔を突っ込むようにして別れを告げている。どうやら礼子さんのお兄さんらしい。

 それから棺のふたに釘を打つという儀式が始まった。島崎さんと息子や娘たちが川原の石のように丸くなった石を握って釘を打つしぐさをしている。

 実際に打ち込んでいるのかどうか分からない。僕はあのパフォーマンスはやったことがないからだ。金槌で打ってはいけないという決まりがあるらしい。

 

 「どうして金槌で打ったらいけないのかね?」

 BGM用のCDをかけに来た葉沼くんに訊いてみた。

 「さあ、どうしてなんでしょうね。僕も良く知らないんですけど、棺おけのふたに釘を打つときは金槌は使いませんね」

 「本当に使わないの?」

 「いや、使うこともあるらしいですけど」

 「なんだ。使うのか~い! じゃあ、ダメということじゃなくて、石を使うなんか別の理由があるんだろうね」

 「昔はどこの家庭にでも金槌があるというわけじゃなかったからかな……」

 「そうだろうか。石を使って打つと中途半端な感じで、簡単に開けられそうじゃない。途中で生き返った人が中から開けやすいようにということかもね」

 「あははは。そうですかねえ」

 結論が出ないまま、葉沼くんは棺を抱えて出ていく島崎一家の後について出ていった。

 「お見送りに行きましょうか」フルモトちゃんに促されて、僕も外に出た。

 表には葬儀屋の車が来ていた。お神輿のようなデコレーションがされた霊柩車じゃなくて、黒塗りのハイエースだった。側面に金色で蓮の花と葬儀屋のロゴが入っている。

 あの狭い山道を良く登ってきたなと僕は感心した。

 そして、もし僕の仮説が正しくて、棺のふたが開きやすいように石で簡単な釘どめがしてあるのなら、あの山道を下り火葬場に行き着くまでに車の震動でふたが開きやしないかと、少し心配になった。

 

 火葬場には親族だけが行くらしく、良く知らないその他の人たちはそれぞれ帰っていった。僕とフルモトちゃんと葉沼くんだけが留守番のために残ることにした。

And I Love Her(20)

 ぼおっとしている間に、お経も終盤にさしかかっているようである。

 僕は子供のころから、校長先生の長い話や、学校行事に来なくてもいいのにやってきた来賓が、子供たちを体育館や講堂に集めて聞きたくもない話を長々とするときは、たいてい意識が遠のいて、ぼお~っとしていることが多かった。半分死んでいたのかもしれない。どうやら聞きたくない話を長々とされると、僕の脳は自動的にそういう仮死状態というか、スリープというか、そういうふうになるらしい。眠っているわけではないが、魂の半分は夢の世界に遊んでいるというか、魂が半分になるということがあるのかどうか知らんが、まあ、そういうふうにぼおっとなるのである。

 

 木魚をポクポクと叩いて、おりんをチーンと鳴らして、「南無阿弥陀仏」と御念仏を唱える。この「南無阿弥陀仏」もお坊さんによって、「ナムアミダブツ」と聞こえるときもあれば「ナモアミダブツ」と聞こえるときもあるし、「ナマンダブ、ナマンダブ」のときもあれば、「ナア~モア~ミダア~ンブ」のときもある。これはお経の流れでそういう調子になるのかもしれない。

 

 まあ、そういう感じで葬式のメーンイベントであるお坊さんの合唱が終わり、三人の僧侶は「何万だ?何万だ?」とつぶやきながらギャラをもらって引き上げていった。

 葉沼くんがMCを務めるらしく、ワイヤレスのマイクを持って登場した。

 「これをもちまして、故島崎礼子様の葬儀ならびに告別式を終了いたします。
長時間のご会葬誠にありがとうございました。この後まもなく出棺でございますので、お見送りされる方はしばらくお待ちください」

 すごい! プロだ! よどみなくこういうことが言えるのは、さすが寺の息子だ!

 ところで、たいてい葬式では喪主とか遺族のあいさつがあるようだが、そんなのあったかな?

 僕は、隣に座っているフルモトに小声で尋ねた。

 「もう、終わり? 喪主のあいさつとかなくていいのかな?」

 フルモトはニヤニヤしながら答えた。

 「佐橋さん、爆睡しとったやん。いびきまでかいとったよ」

 「ふえっ! そうなの?」

 驚いた、僕は式が始まると同時に寝てしまっていたらしい。

 足が痛いので正座は勘弁してもらって、あぐらをかいていたのであるが、それでも座ったまま爆睡していたというのは、それはそれですごいことではないか。達人というか名人というか、そろそろ聖人の称号さえもらってもいいのではないか。

 「そんなアホな。佐橋さん僕にずっともたれて寝とった」

 

And I Love Her(19)

 島崎家の床に敷かれたエスニック柄のカーペットを見ているうちに、僕はいつしか妄想の世界へと入り込み、大昔の記憶の糸をたぐり寄せていたのだが、「住職が来られました」という葉沼くんの声で現実に引き戻された。

 

 葉沼くんの案内で3人のお坊さんが入って来た。先頭に立って入って来た小柄で長髪のお坊さんが、祭壇の前の真ん中の椅子に座った。女の人だった。

 あとの二人は坊主頭の若いお坊さんだった。

 読経が始まった。女性住職のお経はとても良い声だった。

 浄土真宗のお坊さんかと思ったら、どうも違うようだった。

 浄土真宗の葬式ではたいてい正信偈蓮如上人の「白骨の御文章」というのが読み上げられるのであるが、それとは違うお経なのである。

 どうやら浄土真宗ではなくて、浄土宗のお坊さんのようだ。

 僕の父親は浄土真宗門徒だったから、浄土真宗のお経は内容は詳しく知らなくても聞き覚えはあるのだが、浄土宗の葬式は初めてだったのでどういう内容のお経かは良く分からない。

 

 女性住職はまだ若いようだ。声に張りがあり艶っぽい。意味は分からなくてもうっとりとして聞いていたら、再び妄想の世界に入っていきそうな気がした。

 「南無阿弥陀仏」という念仏は同じだ。同じなはずだ。もともと浄土真宗の開祖とされる親鸞は、お師匠さんである浄土宗の開祖法然の教えに従い、法然を慕いつづけた人だからである。「たとえ法然の教えを信じたために地獄に落ちたとしても本望である」というようなことさえ親鸞は言っている。

 

 ところで、「もう一度確かめに行こう!」というジャン=イブに扇動されて、僕らは再びギャング団が陣取るチャイハナに出掛けたのであったが、出掛けようとする3人をゲストハウスのスタッフは青くなって止めた。しかし、そんなことでひるむ我々ではなかった。引き止めても無駄だと察したスタッフは、最悪の状況を想定して籠城の準備を始めた。窓という窓、扉という扉に鍵をかけはじめたのである。

 勇敢なというかバカな三人組は出て行くときに、こう言われた。

 「もし、命あって帰って来られたら玄関の扉を3回叩いて『ハロー、ハロー、ハロー』と3回叫びなさい。そうすれ開けてやるから」

 最後にダメ押しで、こういうことも付け加えた。

 「間違ってもダークー(強盗団)を案内して連れて来たりしてはいけない」

 

 こうして3人は勇んで武装強盗団に占拠されたレストランに戻ったのである。

 テントの入り口で言い争っていたギャング団のボスはチャイを飲んでいるところだった。テントは静かだった。どうやらレストランのオヤジとの話し合いに決着が付いたようだ。中をのぞくとギャング団の子分(たぶん、そういう関係だと思う)たちも「やれやれ、平和的な話し合いで解決して良かった」という雰囲気でチャイを飲んでいた。

 一番奥の、僕たちが食事をしていた場所には、まだ例のお坊さんが座っていた。

 お坊さんは、僕たちが戻ってきたのに気が付くと、「おやおや、また来たのかい」というような感じの笑顔で迎えてくれた。

 ギャング団の面々は「なんだこいつら?」という怪訝な表情で僕らを見ている。

 

 入り口でチャイを飲んでいたボスは、なかなかフレンドリーな感じで僕たちのほうを見ていた。ビジネスが終わって一段落したので、3人のアホな外国人旅行客を観察してみようという気になったのかもしれない。

 「どうなりました?」とお坊さんに訊いてみた。

 日本でも飲食店からみかじめ料を徴収してまわるヤクザがいるように、このダークーと呼ばれるギャング団は、もうかっていそうな飲食店から定期的に売上からいくらかずつ徴収しているようなのだ。

 飲食店のほうではどういうメリットがあるのか分からない。共存共栄の関係なのか、一方的に脅迫されての揺すり集りなのか。とにかく、いつものように金を徴収に来たら店のオヤジが「今月は不景気なんだ。客が少なくて売上がない。あんたたちに渡す金はないよ」みたいなことを言ったらしい。それで「何を!」「ざけんじゃねえよ!」という言い争いになったのだという。無事に話がついて血を見ずに良かったのでした。

 

 日本人とフランス人のオバカな三人組も、一件落着の話を聞いて、二杯目のチャイを飲み干すと、「良かった。良かった」と言いながら、厳重に戸締まりされたゲストハウスに引き揚げていったのでした。

 

And I Love Her(18)

 食事を終えて、チャイを飲みながら僕たちが談笑していると、ガヤガヤと大勢の若者たちが入って来た。見ると、この辺りで見掛けるような連中ではなく、レイバンのサングラスに真新しいスウェット、細身のジーンズにアディダスの靴を履いている。
 さらに驚いたのは、彼らは手に手に銃を持っていたことである。
 僕もジャン=イブもゲストハウスで一服してきているので、ちょっとほろ酔い気分であった。もちろん、一服はたばこではなくて、本場のインド大麻を一服してきたのだ。

 食後の満腹感も手伝って、そのときの僕たちはきっとニコニコしていたのだと思う。
 入って来た連中も、さほど僕たちのことを気にする様子もなく、地元のちょっとワルな若者たちが入って来たという風に僕たちは思っていた。
 ところが、しばらくすると入り口のほうから言い争う声が聞こえてきた。
 ヒンディー語が分からない僕は、お坊さんに何が起きてるのか尋ねた。

 お坊さんは、おだやかな調子で言った。
 「彼らは『金を出せ!』と言っているのだが、オヤジさんは『金はない』と言うのでもめているのだよ」
 その言葉を聞いて、僕とジャン=イブ、シルヴィアの三人は顔を見合わせた。
 さっきまでの愉快な気分が吹っ飛んで、三人とも真顔になってしまった。

 僕は彼らの銃が本物か、彼らには聞こえないように小声でお坊さんに尋ねた。
 「あれは本物だよ。ときどきぶっ放すこともあるから、怒らせないようにしていたほうがいいよ」と、お坊さんは笑顔で答えてくれた。
 「ヤバい!」声には出さないけど、三人ともその瞬間そう思ったはずだ。

 彼らが持っている銃を僕は、祭の出店の射的の鉄砲みたいなものと思っていたのだ。
 なぜそう思ったかというと、これもインド大麻のなせる技だったのかもしれない。
 それからが大変。僕ら三人はどうやってこの店から出ようかと思案を巡らせた。
 それで、結論はというと、いままでの雰囲気を崩さずに、あくまでフレンドリーな雰囲気を醸しだしながら、このまま退場しようということになった。

 僕らはお坊さんにお礼を言うと、彼ら盗賊団にも笑顔を振りまきながら、ソロリソロリと出口のほうに向かった。
 店主と言い争っている、ギャングのボス的なお兄さんにも、笑顔で「ナマステ」とか「Good Night !」とか言いながら外に出た。
 外に出た僕らは一目散にゲストハウスに逃げ帰ったのである。

 一概には言えないが、フランス人には冒険心、好奇心が強い人たちが多いように思う。新し物好きも多い。だから、思想や藝術も最先端のものをすぐに取り入れたりするのだろう。創造性の豊かな人種なのだと常々思っているのだが、ジャン=イブたちもご多分に漏れず、物好きで好奇心旺盛なカップルである。

 ゲストハウスに戻って、インド人のスタッフにさっきの出来事について話したら、彼らはガタガタと震え出した。そして口々に「ダークー」と言うのだ。
 ダークーというのは、武装したギャング団のようなもので、ガイドブックにもそういうのが時々現れて旅人が金品を巻き上げられることがあるので注意するようにと書いてある。

 僕ら三人も、この目で見て来たにもかかわらず、まだ半信半疑のところもあったのだが、ゲストハウスのスタッフたちの脅え方を見て、やはりあの連中は本物のギャングだったのだと納得した。
 で、物好きなフランス人の好奇心が、ここでムクムクと起き上がってきたのである。
 フランス人だけではない。僕のほうにも同様の現象が起きていた。
 
 ジャン=イブは、きっぱりと言った。
 「もう一度確かめに行こう!」

And I Love Her(17)

 いすやテーブルを取っ払って大広間のようになったレストラン「オリーブ」の床には、カラフルなエスニック柄の敷物が敷き詰められていて、喪服を着た人々が座っている。

 ぼんやり眺めていた僕の脳裏にはある光景が浮かび上がってきた。

 ずいぶん昔のことだが、1984年の年末からインドやネパールを半年ほど旅行していたときの出来事だ。

 その旅の前半はダッカの空港で知り合ったフランス人カップルと一緒に行動していた。ブッダガヤにしばらく滞在してダライラマの大法要を待っていたとき、フランス人カップルの男性のほうの名前はジャン=イブと言うのだが、彼が法要はまだ1週間ほど先だから、その間にラジギールに行かないかと誘ってきた。

 断る理由はないから、ジャン=イブとシルヴィアのフランス人カップルと、僕と僕の家族、この辺は詳しく説明すると長くなるので、後で説明することにして端折るが、とにかくジャン=イブたちと僕は一緒にラジギールまで行った。

 ラジギールというのは古代インドのマガダ国の首都だったところで、王舎城という名前でも知られているけど、そこには温泉もあるし、霊鷲山(リョウジュセン)という釈迦が説法を行った山があるので行ってみたいと誘われたのだった。

 ラジギールは盆地にあるらしく、周りは岩山だらけの殺風景なところだった。

昔は賑やかだったのかもしれないが、町らしいものも見あたらなかった。

 そこにあるゲストハウスに三日ほど泊まった。結構大きなゲストハウスだったが、宿泊客は僕たちだけだった。

 温泉というのはヒンドゥー教の人たちが湯浴みをするところらしいのだが、夜出掛けたら電灯もついていないさみしいところで、月も出ていなかったので、真っ暗な中でジャン=イブとシルヴィアと僕の3人で温泉に入ったのだけど、お湯はぬるいし、あまりきれいな感じではなかった。

 

 温泉にがっかりした僕たちは、すぐ近くのレストランに夕食を食べに入った。レストランといってもテント張りで地べたに敷物が敷かれただけのお店で、あれはチャイハナという類に入るのだろうか。敷物はかなり上等なもののようだった。テントの店だからといってバカには出来ない。ランクとしては上の部類のレストランだったかもしれない。ヒンドゥー教徒のための温泉の前にあるからヒンドゥー教のレストランかというとそうではなくて、イスラム教の人たちが食べに来るレストランだった。

 

 ラジギールは良く知らないが、仏教の聖地であるのと同時に、巡礼者もやってくるらしいから、ヒンドゥー教イスラム教にとっても大事な場所なのだろう。

 入り口に風呂屋の番台みたいに小さな机を置いてひげのオッサンが座っている。レストランの主人らしい。

 中は結構広くて詰めて座れば30人ぐらいは楽に座れそうだ。発電機をつかっていたのか、良く覚えていないけど白熱電球がいくつもぶら下がっていて明るかった。

 インドは電力事情が良くないので、しょっちょう停電するし、僕らが泊まったゲストハウスも節電のために暗かった。

 だから、このテントのレストランの明るさには驚いた。まあ、外があまりにも暗かったので余計に明るく感じたということもあっただろう。

 

 一番奥の落ち着いて食事が出来そうなところに、僕らは座った。そこには先客が一人いた。その先客にもちょっと興味を持ったのでその場所を選んだということもある。

 かっぷくの良い、おだやかな、そして知的な雰囲気を漂わせた老人が座っていたのだ。灰白色の長いあごひげをたくわえた、ちょっと見にはサイババとかラジニーシみたいな雰囲気の老人に見えないこともないが、ああいうバッタもんじゃなくて、本当におだやかで知的な雰囲気の人だった。

 話の内容から、イスラム教の結構えらい人ではないかと思った。

 お坊さんかどうか分からないのだが、僕らはこの老人のことをお坊さんと呼んでいた。お坊さんはきれいな英語を話した。それまで僕がインドで知り合った連中はあまり英語がうまくなかった。僕自身が受験英語を一生懸命に思い出しながらのブロークンイングリッシュでしか話せないので、あまり他人のことは言えないのだが、貧乏旅行ゆえにあまり高学歴の人と出会うこともなかったので、フランスなまりのジャン=イブたちの英語がまあまあましなほうだった。

 お坊さんは、イスラム教というのは唯一にして絶対なる神への信仰だというようなことを繰り返し話した。石の像を拝んだり、金ぴかの神像や仏像を崇拝するのはバカげていると、笑いながら話してくれた。

 

 そのお坊さんが座っている場所はテントの一番奥で、お坊さんの後ろにはカレンダーなのかポスターなのか大きな絵が印刷した紙が張ってあって、その絵に描かれているのは有名な聖地であるサウジアラビアのメッカ、その巡礼者たちがひしめきあうマスジド・ハラームの光景であった。

 そういう絵を背にして座っている教養のありそうな老人を見て、僕もジャン=イブも、彼はきっとイスラム教の高僧に違いないと思ったのだ。

 

 

And I Love Her(16)

 島崎さんの家に入るのは初めてである。

 家の中は天井も高く広々としている。入ってすぐのところがレストランとして使われるために普段は4人掛けのテーブルが5つほど置いてあるらしいのだが、きょうはすべて片付けてあり、板張りの床にはエスニック風の柄のカーペットが敷かれていて、そこに参会者は直に座っている。

 

 島崎夫婦は地元の人ではないし、それほど付き合いの広いほうではないと思っていたので、葬式はほとんど家族と友人たちだけで行うものと思っていたのだが、見たことのない男女が既に10人以上座っている。そして、彼らは全員ちゃんと喪服を着ているのだ。もちろん喪主である島崎洋司も息子や娘たちも黒のスーツを着て、祭壇の前に座っている。

 どうやら葉沼くんが司会進行の役らしく、かれも黒のスーツに黒いネクタイの正装である。

 なんだ、普通の葬式だったのか。僕はそう思ってフルモトと顔を見合わせた。

 フルモトはいつものジャンパーにジーンズ。僕も似たような格好で、二人とも完全に浮いている。

 これまでに葬式は何度も経験している。僕は基本的に冠婚葬祭、宴会などは大嫌いで、結婚式にも行かないのだが、直接付き合いのあった人の葬式には極力出ることにしている。

 葬式の案内状には「普段着で」などと書いてあっても、行くと例外なく全員が喪服で参加していることを何度も経験しているのだが、まさか島崎礼子の葬式の参加者がほとんど喪服ということを予想していなかったのだ。

 

 日本の葬礼にはいろんなしきたりがあるらしい。それが必ずしも伝統とは限らない。極めて新しい風習というか、流行も混じっているようだ。

 たとえば、通夜の席には普段着で行ってもいいらしい。そして通夜の香典には薄墨で書くのだそうである。理由は、突然の訃報にあわてて駆け付けたという体裁をとるためである。急な知らせに、あわてて墨を擦り筆を走らせたのでまだ墨も薄く、格好も普段着のままだという意味らしい。

 僕はこの話を聞いて、吹き出してしまった。なんと愚かな、なんとバカバカしい演出なのか。日本の伝統とか習慣というのはここまで愚かなのかと思ったのだ。

 100円均一の店に行くと、薄墨色で既に「御香典」と印刷された香典袋が売ってある。薄墨色の筆ペンも売ってある。形式だけを重んじる日本の伝統芸なのだ。

 いや、正確に言えば形式を重んじているわけでもない、ただ形だけ整えておけばそれでいいという実にいい加減な「伝統」なのだ。

 

 白井治とそういう話をしたことがあった。白井は「そもそも葬式や、寺、坊主という存在自体が、体裁だけで中身のないバカバカしいものなんですよ」と言って笑った。

 しかし、ある知人の葬式で喪服を着て手に数珠を持って神妙な顔をして参列している白井を見て、僕は「日本の伝統」に少なからぬ恐怖を感じたのである。間違えてはいけない。畏怖ではない恐怖を感じたのだ。中身のないからっぽの習慣を、たとえそれがバカバカしいものだと知っていても、人々は真面目くさった顔をして続けているのだ。

 狂気じゃないか。狂気そのものだ。

 浄土真宗の開祖親鸞は「自分が死んだら鴨川に捨てて、魚に食わせろ」と言ったそうだ。別のときには「自分は親の追善供養のために念仏を唱えたことなど一度もない」とも言っている。ところが、その浄土真宗でさえも空っぽの儀式によって大きな収入を得ているのだ。

 僕は自分の父親の葬式のときに、小さな町のことであるから普段から顔見知りの住職が、酒で仕上げた自慢のしゃがれ声を張り上げて「ナンマンダ、ナンマンダ」と叫ぶ様に、思わず笑ってしまったこともあった。「ナンマンダ、ナンマンダ」が、こいつ御布施のことを考えながら「何万だ?何万だ?」と言ってるなと、まるで落語じゃないかと思ったら、笑いをこらえきれなかったのである。