煙が目にしみる

猫と老人の日記

ア・デイ・イン・ザ・ライフ(9)

 旭川での二日間の公演を終えて、美深町士別市といった旭川からさらに北に行ったところにある町で公演を行いました。

 舞台では毎日インド人の団員たちと接しているわけですから、しだいに何人かの人と親しくなっていきました。

 親しいとまでは言えないけど、毎日いろいろな注文を付けられたり、指示をされているので魔術団側の舞台監督であるデイさんとは顔なじみにすぐなりましたし、照明や背景幕を変えるきっかけになるのは大体、ムラリーさんの弾くバイオリンということが多かったので、ムラリーさんを注視することも多く、彼とも親しくなりました。

 ムラリーさんは、年齢は聞かなかったけど、もしかしたらデイさんより年上だったかもしれません。はげ上がったかっぷくの良い布袋さんのような人で、いつもニコニコしていましたが、それでもミュージシャンならではの繊細さが感じられる人でした。

 実はムラリーさんはゲイだったらしく、イワモトさんに興味を持っていたようです。あるとき、イワモトさんが僕に言ったことがあります。

 「おれ、ムラリーさんから言い寄られてるんだよ。おれはストレートだからって、断ったんだけどなあ」ムラリーさんからどう言い寄られているのかは知りません。

 

 幕の上げ下げ、それに大道具の出し入れというのが僕の仕事だったので、上演中はずっと舞台袖や幕裏にいました。魔術団のスタッフで同様のことをやっていたのが、ニモールとオニールという二人の若いインド人でした。

 二人とも二十代で、僕よりは少し年上のようでした。最初のうちは、僕もどの演目で使う幕がどれで、それをどのタイミングで飛ばしたり、下ろしたりするのか、良く把握出来ていなかったので、彼らから教えてもらうことが多かったのです。

 上演中はずっと忙しいわけではありません。余裕が出来てくると次の演目までの間、少しばかり暇な時間も出来てきます。

 そういうときは、やはり若者らしくニモールやオニールはふざけたりする事もあり、僕も彼らからベンガル語を教えてもらったりすることがあって、仲良くなりました。

 

 P.C.SORCARインド大魔術団はカルカッタコルカタ)を本拠地にしていますので、彼らの言語はベンガル語です。魔術団には若い女性たちもいました。彼女たちは全員が20歳以上ということになっていましたが、どう見ても10代の子が多かったように思います。そのほとんどが、東パキスタンからインドへ逃れてきた難民やその子供たちだということでした。

 この当時は、東パキスタンはまだバングラデシュとして独立していませんでした。 

 1948年にインドがイギリスの植民地から独立したときに、ヒンドゥー教徒が多いインドと、イスラム教徒が多いパキスタンは一緒になることが出来ず、分離独立したわけですが、インドの西側にあった地域が西パキスタン(現在のパキスタン・イスラム共和国)インドの東側にあった地域が東パキスタン(現在のバングラデシュ人民共和国)となりました。西パキスタンと東パキスタンは別々の国ではなくて、パキスタンという一つの国としてイギリスから独立したのです。

 宗教はどちらもイスラム教ですが、インドをはさんで西と東に遠く離れており、言語もウルドゥー語ベンガル語と違います。

 インド独立のときにこの複雑な事情を抱えたままパキスタンは独立したわけで、その後紛争も絶えませんでした。

 インドも100%ヒンドゥー教の国というわけではなくて、カルカッタコルカタ)の辺りは西ベンガル州という名のとおり、もともと東パキスタンと同じベンガル人の土地だったわけですから、文化も言語も同じです。

 そういうわけで紛争が起こる度に難民となった人たちが、国境を越えて同じベンガル人の住むカルカッタコルカタ)に逃げてくることが多かったのです。

 

 団長のソーカーさん自身が、ベンガルの人でしたから、そういった難民の中から魔術団の団員として多くの人たちを受け入れてきたのでした。

 マネージャーのノノムラさんの話では、「これはナイショだけど、女の子たちは労働ビザを得るためにパスポートの年齢はサバ読んであるんだよ」ということでした。

 彼女たちは一様にやせていて、小柄だったので、なおさらのこと幼く見えました。

 のちのち分かることですが、この小柄でやせているというのは、マジックにとって重要な条件でもあったのです。