煙が目にしみる

猫と老人の日記

And I Love Her(8)

 女の人は酔っているのか、それとも泣いているのかカウンターに突っ伏してしまい、店の中は沈黙と静寂に支配されつつありました。

 マスターは、僕の存在を思い出してくれたのか、やっとこちらへやってきて「ご注文は?」と訊いてくれました。

 「何か食べるものはありますか?」歩き回ったせいか、お腹が空いていたのです。ホテルに戻れば夕食が用意されているはずだったのですが、ホテルで食事をする気になれませんでした。理由は分からないけど。

 「サンドイッチならすぐ出来ますよ」と言ってマスターはにっこり笑いました。

 「それでは、サンドイッチとコーヒーをください」

 「コーヒーはブレンドで?」

 「モカがあれば、モカをお願いします」

 「分かりました。何かレコードでもかけましょうか?」

 マスターは、このとき僕がこの沈黙と静寂に圧倒されていることを気遣ってくれて、そう言ったのでしょう。

 「ジャズ、お好きですか?」このマスターの言葉は意外でした。ここに入ってきたときはただ喫茶店だとは分かっていたけど、ジャズのレコードをかけてくれるようなお店だとは思っていなかったからです。

 「ジャズ、良いですね。好きですよ」

 恩赦が知らされた死刑囚のように僕の心は晴れやかになりました。

 「ビル・エヴァンスでもかけましょうかね」

 そう言いながらマスターは店の奥のレコード棚のほうに歩いて行ったのですが、そこには大きなレコード棚にぎっしりとレコードが並んでいました。店が暗かったせいもあるけど、店の奥の壁ぎわには立派なスピーカーが置かれていることにも気付かなかったのです。

 

 マスターがかけてくれたレコードはビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビイ」でした。ヴィレッジ・ヴァンガードでのライブ盤です。

 最初の「マイ・フーリッシュ・ハート」を聞いているうちに、さっきまでアコのことをあれやこれやと勝手に想像して、思い悩みながら雪の中を彷徨っていた自分のことを考えると、まさしくマイ・フーリッシュ・ハートだなと、なんだかおかしくなってきました。

 まるで僕の心が見透かされたような、とても良い選曲だったと思います。僕は「ワルツ・フォー・デビイ」で心がやすらぎ、カウンターの女の人の愚痴も聞かなくてすんだからです。

 それに、マスターがつくってくれた卵サンドとコーヒーもすごく美味しかったのです。

 フラフラと迷いこんだこの小さな喫茶店で、僕は生気を取りもどし、やっとホテルに戻る勇気を得ることが出来たのでした。