煙が目にしみる

猫と老人の日記

And I Love Her(15)

 「ハヌマくんも、もう来てるみたいですね」
 フルモトは空き地に並んでいる車を見ながら言った。

 軽自動車、トラック、バン、ジープ、さまざまな車が並ぶ中で、荷台にブルーシートをかぶせた軽トラックは間違いなく葉沼隆の車である。
 葉沼は陶芸家で、ここから車で2時間ほどの山中にハヌマーン工房という仕事場兼住居があり、夫婦で焼き物を焼いている。島崎夫婦の経営する自然食レストラン「オリーブ」の食器はすべて葉沼夫婦の作ったものである。

 雑木林に遮られて、この場所からは見えないのだが、その向こうには眼下に有明海を見渡すことが出来る。さらに海岸線に沿って走る国道の傍らに白い瀟洒なレストラン「オリーブ」を見つけることも出来るはずだ。

 海沿いにある店は、店の常連客だった人物に譲渡して、島崎は丘の上の家を自宅兼レストラン「オリーブ」として改装しようとしていた。

 私もフルモトに誘われて、改装工事を手伝いに来たことがあった。海辺の店とは対照的に自宅のほうはログハウス風の建物で、その大部分を島崎自身が造ったのだった。

 デッキに防腐剤を塗る作業を手伝いに来たとき、外で昼食を取った。そのときのことを今も良く覚えている。

 良く晴れた秋の日の午後、食後のコーヒーを飲みながらフルモトと私、そして島崎夫婦で談笑していたときのことである。

 島崎夫婦は同じ大学の卒業生で、学生時代に知り合って結婚した。島崎礼子は文学部で英米文学を専攻したという。

 「私は卒業論文マーガレット・ミッチェルの『風とともに去りぬ』を選んだのよ」

 「へええ、僕は翻訳も読んだことないけど、原文で読んだんですか?」と、私は礼子さんに尋ねた。

 「読めるわけないよ。日本語訳で読んで論文書いたんだよ」島崎洋司は妻のほうを見て笑いながら言った。

 「あら、全部じゃないけど、英文でも読んだのよ」

 礼子さんは、ちょっとふくれて見せたけど、すぐにおどけた表情に戻って「もっとも、90パーセント以上は日本語訳で読んだんだけど。全部、英文で読めるほどの語学力があったら、翻訳家になってたわよ」と楽しそうに笑った。

 「正直言って、僕には『風とともに去りぬ』と『嵐が丘』の区別もつかないんですよ」

 「『嵐が丘』はエミリー・ブロンテ。イギリスの話で、『風とともに去りぬ』はマーガレット・ミッチェルの原作で映画にもなったのよ。こっちは南北戦争のころのアメリカの話」

 「『風とともに去りぬ』の映画って、エリザベス・テーラーが出てるやつかな」フルモトが言い終わらないうちに、礼子さんは訂正した。

 「違う違う。ヴィヴィアン・リーよ。すっごいきれいな女優だったのよ」

 

 海のほうから風が吹き上げてきて雑木林をゆらした。

 フルモトと私は駐車場よりも少し高くなっている島崎家に向かってゆるやかな坂道を登っていった。

 小径の両側には色とりどりのコスモスが咲いている。

 しばらく来ない間に、立派な庭園が出来ていた。

 白いペンキで塗られた大きな木製のドアを開けて家の中に入ると、きちんとした喪服を着て葉沼くんが案内のようなことをしている。

 彼の実家はお寺なので、きっと葬式の段取りなどには慣れているのだ。

 音楽が好きな島崎夫婦の家だけあって、壁の高いところにBOSEのスピーカーが取り付けられていて、ビートルズの曲が流れていた。

 

And I Love Her(14)

 フルモトの運転する軽バンは町を出て、山道に入って行った。

 本や雑誌を満載して、さらに大人二人が乗った軽自動車にとってはきつい上り坂が続く。狭くまがりくねった山道をノロノロと進む。下りの対抗車が来ないのが幸いである。この道での離合は、いくら軽自動車でも大変なのだ。

 右手は杉林の傾斜地、左手に見下ろすように谷底から道路の際まで棚田が続いている。

 「島崎さんと白井さんは、すっかり仲が悪くなってるみたいだね」

 「そうですね」フルモトは、あまりその話題に触れたくないのか、それとも事情に詳しくないのか、口数が少ない。もっとも、険しい山道で運転している最中に、混み入った話などしたくはないのだろう。

 

 私は亡くなった礼子さんがこんなことを言っていたのを思い出していた。

 「主人はあまり人の悪口は言わないほうなんだけど、『もし俺が、車で走っていて白井が道端に倒れていても、絶対に助けてなんかやらず、轢いて行く』って言うんですよ」そう言って、礼子さんは愉快そうにケラケラと笑っていたのだ。

 そのときは、あまりにも唐突な話題で事情も分かっていなかったため、私はあっけに取られて聞いていたのだった。

 その後、別の友人から白井治と島崎洋司が不仲になった理由について聞くことが出来た。もともと白井治と島崎洋司がどういういきさつで知り合ったのかは知らないが、最初のうち二人はむしろ仲が良かったのだ。二人とも脱サラで仕事を始めたばかりで意気投合したらしい。白井治は大学を卒業すると東京で商社に就職したが、そこを3年ほどで辞めると、長野県の田舎でヒッピーコミューンのようなところにしばらくいて無農薬の野菜作りを手伝っていた。

 そこで知り合った女性と結婚して、本格的に無農薬で農業をやろうと思い土地さがしをしていた。そんなときに知り合ったのが島崎夫婦だった。簡単に言うとそういう経緯だったらしい。

 無農薬で農業をやろうとしていた白井がなぜ古本屋を始めたのかといえば、たとえ土地が見つかっても最初の数年は現金収入は望めないだろうから、少ない元手で始められてそれなりに収入が望める古本屋がいいだろうと思ったのだ。

 一方、島崎夫婦のほうは食に関心があったので、自然食のレストランを始めた。ところが、無農薬の野菜や食材を集めるのはなかなか大変だった。

 無農薬野菜を作っているとか有機農業をしている農家があると聞けば、訪ねていって野菜を分けてもらう交渉をするのだが、虫に食われたり、天候に左右されたりで出来不出来があり、安定して提供してもらえないのだ。それに最初想像していた以上に値段も高くて、なかなかメニューには載せられなかった。

 そういうわけで、白井夫婦と島崎夫婦は共同で農地を手に入れて、自分たちで無農薬の野菜づくりをやろうと計画していた。あるとき知り合いのつてで見つけた好条件の土地を共同で購入する予定であったのだが、白井夫婦は独断でその土地を手に入れてしまった。そのことがこの二組の夫婦の決定的な対立の原因になっていたのである。

 

 私は断片的にこの話を亡くなった礼子さんから聞いていた。しかし、それは島崎夫婦側からの話で、白井夫婦からは聞いたことがなかった。白井夫婦の前で、島崎という名を出すだけで、何となく気まずい雰囲気になり、私もそこまでこの問題に深入りするつもりもなかったので、白井治に実際はどうだったのか訊くつもりもなかった。

 

  「もうみんな来てるみたいですね」

 山道を登りきって、丘の上のようなところに着いた。

 雑木林を切り開いて造られた駐車場に車が何台も停められている。

 フルモトは空いているところに車を入れるとサイドブレーキを引いて、車を降りた。

  

And I Love Her(13)

 表通りの商店街は人通りもなく、これ以上に寂れようがないというほどのシャッター商店街になっている。営業しているのは中古書店(なかふるしょてん)と、100円ショップ、ラーメン屋、郵便局ぐらいのもので、実に閑散としているのだ。商店街の共同駐車場も利用する客もいないので、停め放題の無料駐車場になってしまっている。

 フルモト書店の軽バンには後部に、店に入りきれない段ボールや、紐で縛った古本などが積んだままになっている。

 フルモトの体重はどう見ても100キロ以上ありそうだし、私がいくら小柄であっても大人二人が本を満載した軽自動車に乗り込むと、車はグッと沈み込む。

 「ほんなら、行きましょか」

 「お葬式、3時からやったよね」

 「そうですね。4時出棺の予定ですね」

 「フルちんは島崎さんとの付き合い、一番長いよね」

 「島崎さん紹介してくれたのは、白井さんなんやけど、僕はずっと島崎さんと付き合うというか、お世話になってましたからね」

 フルモトは四国の小豆島出身で、実家は素麺をつくっていた。親は家業を継がせようと思い、修業のつもりで親戚筋の素麺工場に働きに出した。

 その親戚の素麺工場の娘と恋仲になり、娘の親もフルモトを婿に迎えて工場を継がせようと思っていた。ところが、フルモトの両親がこの結婚に反対したのである。

 そのわけは、フルモトの実家のほうでも一人息子である光輝に素麺工場を継いでもらいたかったので、婿として取られると困るのである。

 問題はそれだけではなかった。フルモトの恋人、名前は千香子だと聞いているが、彼女は幼いころから漫画が好きで、漫画家になるのが夢であった。

 フルモトも子供のころから本の虫と言われるほど、ありとあらゆる本が好きな少年であった。本好きも漫画も趣味にして、素麺工場を継げばいいのにと私は思うのだが、人生そう簡単ではない。

 千香子はどうしても漫画家になりたい。光輝の本心は素麺工場のあととりとか嫌だった。それで、二人は駆け落ちをした。

 四国にいては、いずれ見つかって連れ戻される。そう思った二人は、大阪に行き仕事を探した。光輝は大きな書店のアルバイトを見つけた。千香子は漫画家のアシスタントになることが出来た。

 小さなアパートだが二人で暮らすことが出来た。光輝が22歳、千香子が20歳のときである。古本光輝にとって、最も幸せなときだった。

 そういう暮らしが2年続いたある日、千香子は突然いなくなった。

 光輝には千香子がどこにいるのか分かっていた。少し前からうすうす勘付いていたのだが、千香子は漫画家の先生の担当編集者と仲良くなっていたのである。

 いなくなった千香子が、その編集者のマンションにいるということは、容易に想像出来た。

 親を裏切ってまで駆け落ちをした相手に裏切られて、光輝は深く傷ついたのであるが、千香子を追うことはしなかった。

  それは光輝のプライドからだったかもしれないが、やはり彼の「あるがまますべてを受け入れる。たとえ出来なくてもそうありたい」という寛容の精神から来るものだったと私は想像している。

 私が直接、彼にそのことについて尋ねたことはない。いくら寛容な友人でも、傷口を無理にこじ開けるような質問は、私もしたくないからだ。

And I Love Her(12)

 翌日の午後、私は隣町にある古本書店(ふるもとしょてん)を尋ねた。

 島崎洋司の妻、礼子の葬儀は自宅で執り行われるということだったが、私は島崎の自宅を知らないので、古本光輝(ふるもとみつてる)と一緒に行くことにしたのだった。

 古本(ふるもと)の店を尋ねるのも半年ぶりである。

 裏通りの いかがわしい空気が漂う一角にある小さな本屋である。

 冬の午後とはいえ、古本書店の周辺は薄暗く、すえたにおいが漂っている。良く言えば昭和の香りであり、はっきり言えば酔っ払いのゲロと野良犬の糞のにおいと、側溝の汚水のにおいをミックスしたような空気が路地裏一帯によどんでいるのだ。

 店の前に置かれた大きな「古本書店」と書かれた電飾看板にもたれるようにして、毛並みの悪い犬が一匹またぐらに頭を突っ込んでべろべろなめている。

 「古本書店」は「ふるもとしょてん」と正しくは読まなければならないのだが、ここを訪ねる客のほとんどが「ふるほんしょてん」と思っている。実際に古本を扱っているので間違いではないのだが。

 古本光輝(ふるもとみつてる)の店だから、正しくは「ふるもとしょてん」なのである。余談なのだが、表通りのほうには中古書店(なかふるしょてん)という本屋があって、そこは新刊書を扱っている。中古(なかふる)は、やはり店主の名字らしい。

 ややこしいことはなはだしいのである。

 入り口の硝子戸には「高値買い取りいたします!」「高く買っても、安く売らなきゃ頭が痛い」とか、「エロい写真集大歓迎!」とかの張り紙がすきまなく張られていて、中は良く見えない。

 硝子戸を引き開けると、古書店特有のカビのにおいを含んだ空気が流れ出してきた。

 店主のフルモト(まぎらわしいので彼の名前はカタカナで記すことにした)は、紐で縛った大量の雑誌類に埋もれるようにして、何かを探していた。

 

 「携帯が見つからんのや」

 アダルトやホビー系の雑誌を片付けていたら、携帯がどこかに紛れ込んでしまったのだという。

 フルモトは買い取りした本などを保管するために倉庫を借りていたのだが、そこを引き払って在庫の古本や雑誌類を全部この店に運び込んだために、足の踏み場もないほどになっていた。

 そろそろ出掛けないと、礼子さんの葬儀の時間も迫っているのだがと思いながら、何気なく辺りを見まわしていたら、レジの脇に置かれた携帯電話に気が付いた。

 「これやないと?」

 「えっ、どこ?」

 巨体を古雑誌の中に沈めていたフルモトが振り返った。

 「ほら、レジのとこ」

 「ああ、そこに置いとったんか」

 フルモトは苦笑いして、携帯を手に取った。

 「もう、そろそろ出掛けないと葬式始まるんやない?」

 「そうやね。車、僕ので行く?」

 「うん。僕は道知らんから」

 

 店の戸締まりをすると、私とフルモトは表通りの駐車場まで歩いて行った。

 「フルちんは、島崎さんとの付き合い長いよね」

 私や、友人たちの間では古本光輝のことを「フルちん」と呼んでいる。最初は「フルモッちゃん」だった。それがいつしか「フルちゃん」になり、さらに「フルちん」と呼ばれるようになっていたのである。

 そう呼ばれてもフルモトは嫌がらなかった。

 古本光輝は、私の友人の中でも比べようもないほど、その体形に似て大らかな性格の持ち主であった。

 私は一度、フルモト本人に「フルちんは、寛容が服を着て歩いてるような人だから」と言ったことがあった。

 彼は笑いながら「寛容が服を着とるんやなくて、寛容がふりちんで歩いとるんやない?」と答えた。そういう寛容とユーモアの持ち主なのである。

 

And I Love Her(11)

 いつもなら途中で口を差しはさみ、話題をオカルトのほうに誘導したがるのに、めずらしく白井治は私の昔話を最後まで聞いてくれた。

 なぜ、私がこういった思い出話をしたのか、また白井治がなぜ私の昔話などに関心を示したのか、それは良く分からないのであったが、なんとなくそういう話になっていた。

 白井はいつも自分の興味がある分野、オカルトや古代史について、どちらかというと一方的に話すことが多く、話題もそちらのほうに誘導するのが常だったのであるが、このときは不思議に最後まで黙って聞いていた。

 「それで、ずっとインド魔術団の仕事の間は猫屋敷と名乗っていたんですか?」

 僕の話が終わると、白井は尋ねた。

 「いや、いや、それは無理ですよ。タニムラさんも本気で信じていたわけではないし、すぐにバレることだから、本名を名乗りましたよ」

 「そうでしょうね。でも、佐橋さん、なんでまた猫屋敷なんて言ったんですか?」

 白井は笑いながら尋ねた。

 「僕の本名が佐橋じゃないですか。サバシだから、猫が寄ってくるんですよ」

 「あははは。本当ですか?」

 「なんでも、死んだオヤジが言っていたんですけど、我が家は昔かつお節やさば節を造っていたらしいんです」

 「佐橋さんは鹿児島でしたっけ?」

 「ええ。僕はこっちで生まれたんですけど、オヤジの代までは鹿児島です」

 「鹿児島でさば節やかつお節の加工業をなさってたというわけですね?」

 「ええ。そうです。でも、実際にかつお節造ってたのは、大正のはじめぐらいまでらしくて、そのころやはり地元では猫屋敷とか言われていたらしいですよ」

 「ああ、猫が寄ってくるんですね」

 「加工するときに出たサバやカツオのくずをもらいに来てたんじゃないですかね」

 「そうなんですか。一応、猫屋敷という屋号というか、呼び名はあったわけなんですね」

 「まあ、屋号じゃないですけど。父が子供のころにはそう呼ぶ人もいたそうです」

 「お父さんの代で、かつお節屋さんはやめられたわけですか」

 「祖父の代ですね。大伯父が莫大な借金をつくっちゃって、工場も屋敷も抵当に入っていたものだから、つぶれちゃったらしいですよ」

 父親の話では、祖父のすぐ上の兄さん、私も幼いころに一、二度会っているのだが、寅次郎という人が金山探しに佐橋家の財産を使い果たし、さらには借金で家業までつぶしてしまったのだという。大伯父寅次郎は、薩摩藩の金山にまだ手付かずの鉱脈が残っているはずだと、家業も継がずに探しまわっていたのだ。

 私の記憶では、トンビに山高帽のかっこうで突然現れる痩せたおじいさんという印象だったが、父の話でもおしゃれで遊び好きの人だったらしい。

 財産使い果たして借金までしたのは、必ずしも金山探しだけのせいではなくて、遊蕩によるものであったかもしれない。

 父親の子供時代には家業もうまくいっていて、かなり裕福だったらしい。それが、父が旧制中学に進学するころに、寅次郎の借金のために工場や家屋敷が人手に渡ることになってしまった。

 不運というのは重なるもので、工場の破算と同時に祖父も他界してしまった。

 

 佐橋家の屋号は「鰹屋」であったらしく、私が子供のころにその当時の「鰹屋」の帳面や印判などが残っていて、見たこともあった。当主は源左衛門を名乗っていたという。だから祖父は佐橋源左衛門というのだが、その代で鰹屋はつぶれてしまったので、私の父は佐橋一郎という極めて普通の名前しか持っていない。

 

 「猫屋敷源左衛門」などと名乗ってタニムラさんをかついだのは、子供のころ私は羽振りの良かったころの佐橋家に生まれたら良かったのにといつも思っていたからだ。

 佐橋真一などではなくて、四代目鰹屋源左衛門というのが格好が良く、そう名乗りたいと思っていたからである。

 

 店の電話が鳴っている。白井は受話器を取ると、すぐに私に渡した。

 妻の律子からだった。

 「古本さんからさっき電話があって、島崎さんの奥さんが亡くなったってよ」

 

And I Love Her(10)

 私がもう半世紀も前の話を思い出したのは、白井書店の白井治と雑談しているうちに、問われるともなく昔話を一つ二つ思い出しながら語ったのがきっかけであった。

 面白いことにもうすっかり忘れてしまっていたはずのアコのことを知らず知らずに話している自分に気が付いたのである。

 正直言って声も顔も覚えていない。すべて記憶の底に沈み、二度と浮かびあがってはこないはずの思い出だったのだが。

 

 アコとはあのとき以来再び会うことがなかった。照明チーフのタニムラさんやフジモリくんと何かあったのだろうというのは、まったく私の勘繰りに過ぎなかった。

 それは東北公演のために北海道を離れてから、タニムラさんから聞いて分かったことだった。

 アコの交友関係にそこまでこだわっていたにもかかわらず、なぜ、彼女のことを忘れ去ってしまったのか、いまとなってはもう分からない。

 

 あのあと、インド魔術団は旭川を出て網走、北見、斜里、中標津といった北東部の町で公演を行い、札幌へと南下していった。

 その道中での事故のことはいまでも良く覚えている。札幌へと向かう途中吹雪になった。夜の移動だったので、トラックのヘッドライトに照らされた雪はハレーションを起こして前が良く見えなかった。地元のドライバーである大石さんが運転する8トン車が前を走っていて、タニムラさんの運転する11トン車があとを走っていた。もちろん私は11トン車の助手席に乗っていたのだ。

 ただでさえ吹雪で視界が悪いうえに、前を走行する8トン車の巻き上げる雪煙のために外はまっ白で何も見えなかった。

 タニムラさんも私も道を知らないので、前の車から離れるわけにはいかなかった。8トン車のテールライトの赤い光を目印にして走るしかなかったのだ。

 

 連日の公演のために疲れと、まっ白な雪と赤い小さな光だけを見詰めている単調な時間が眠気を誘った。睡魔にあらがうのは難しく、いつしか居眠りをしていた。

 その瞬間、ドカーンという衝撃音がして、トラックは急停車した。

 タニムラさんは私以上に疲労していたので、彼もついうとうととしてしまったらしい。前の車に接近し過ぎて追突したのだった。

 

 そのときの衝突で助手席側のヘッドライトがつぶれてしまった。幸いに運転席側のライトは大丈夫だった。反射的に右にハンドルを切ったために助手席側から追突したのだった。ドライバーはこういうとき、たいてい自分の身を守ろうと反射的に右にハンドルを切るらしい。そして、助手席に乗っていた者が犠牲になることも多いという。

 前の見えない雪道走行だったので、スピードは出せなかった。それが幸いしてというか、そのために起こした事故ではあるのだが、二人ともケガはなかった。

 左側のヘッドライトがつぶれただけで済んだ。前の8トン車はまったく無傷だった。大石さんも驚いて車を降りてきた。

 大石さんの話ではあと数キロで、その夜宿泊する予定であった定山渓に着くだろうということだった。

 しかし、この数キロの走行はいままで経験したことのないような緊張の連続だった。

 左側のライトが駄目になったので、左側は見えなくなった。右のライトだけでも良さそうなものだが、冬の北海道を走ったことがあれば分かるように、道路の両側に雪がつもっていて、道幅が分からないことがある。特に夜間、それも山道を走っていると道幅が分からず転落することもあり得る。

 トラックには夜間作業用に大きな懐中電灯を積んでいたので、私は助手席からその懐中電灯で左前方を照らし続けた。

 

 前のトラックに接近し過ぎて、うっかり急ブレーキを踏むと凍結した道路だからすぐにはとまらず、再び追突しかねないので、ノロノロ運転で走るしかなかった。

 ちょっと離れると雪の煙幕のためにテールライトも見えなくなる。

 昼間なら10分もかからずに着くところが、30分以上もかかった。私たちには30分どころか3時間ぐらいに感じられたのである。

 

 定山渓のホテルに着いたときには、先導した大石さんも神経の張り詰めたドライブのために疲れきっていた。もちろん、タニムラさんも私もこのうえもないほど疲労困憊していた。

 ホテルの人が、地下のボイラー室が暖かいのでそこで冷え切った体を温めたらどうかと教えてくれた。

 私たち3人は言われるままにボイラー室に行ったのだが、そこにはいすも何もないガランとした部屋だった。その代わりにこのホテルでは間違いなく一番暖かな部屋だったろう。私たちはいつしか、コンクリートの床にそのまま倒れ込むようにして寝てしまっていた。

 

 翌日、ホテルの人から聞いた話だが、我々をボイラー室に案内した人がしばらくして様子を見に行ってみると、3人が折り重なるように床に倒れているので、酸欠で倒れたのではないかと大騒ぎになったそうである。

 私たちは、そういう騒ぎなど知らずに翌朝までコンクリートの床で寝ていた。

 翌日は、そのせいか、あちらこちらが痛かった。

 

  インド魔術団の日本公演は、その端緒で団長が亡くなるというハプニングがあり、日本人スタッフでは、舞台監督のイワモトさんが厳寒と過密スケジュールのために旭川でおりてしまったということもあったが、最初の予定通り最も寒い時期を北海道のそれも北のほうから攻めて順々に道南へと移動し、3月になると東北・北陸を経て関東へと下っていく、実にクレージーな日程をこなしていったのである。

 

 移動と数々のトラブルに対処しながらの連日の公演にかまけて、アコへの思いも薄れていったのだろう。恋といっても一方的なものであったし、それも一瞬のことだったのかもしれない。

And I Love Her(9)

 喫茶店「だるま」で暖を取り、熱いブラックコーヒーとサンドイッチで一息ついたものの、そこからホテルへの帰路は結構遠く、途中で吹雪き始めたので帰り着いたときの僕は雪だるまのようになっていました。

 冷え切った体を温めるために、風呂場に向かいました。

 湯気の立ち込めた風呂場に入ると、ニモールとオニール、それにカーペンターもいます。見ていると彼らは湯ぶねにはつからずに、体を洗っているだけです。

 髪を洗うときは水をかぶっているので、なぜお湯を使わないのかと訊くと、オニールは頭にお湯をかけるとバカになると言うのです。本気で言っているのか冗談なのか分からないのですが、とにかくニモールもカーペンターも「そうだ。そうだ」と首を振っています。彼らが同意するときの表現は、日本人のようにうなづいたりするのではなくて、首を横に振るのです。OKとか分かったとか、その通りとか、そういう表現です。

 

 お湯を頭にかけるとバカになるのなら、インドの太陽光線を浴びてもバカにはならないのだろうか。お湯でバカになるというオニールの話に納得は出来なかったのですが、インドの太陽光線が人を狂気に追いやるほど強烈だからこそ、頭を熱から守る必要があるという彼らの習慣なのだろうと、僕はそういうふうに理解してみました。

 結局、湯ぶねにつかることもなく、頭からお湯をかぶることもなく、彼らが出ていくと、入れ代わりにソーカー・ジュニアが入って来たのです。

 驚いている僕にソーカー・ジュニアは、自分もこのホテルに泊まることになったのだと言いました。ムラリーさんやデイさんたちも一緒だそうで、魔術団の全員がこのホテルに宿泊しているのだそうです。

 ソーカー・ジュニアはオニールたちと違ってお湯をかぶり、湯ぶねにもつかるので、さっきのオニールたちとの会話について訊いてみました。

 ジュニアが言うには、彼らは普段お風呂に入る習慣がなく、水のシャワーや、ときに川で水浴びしたりしているので、日本人にはぬるいお湯でも熱湯と感じるらしいのです。ジュニアは子供のころから、父親のソーカーさんの公演旅行で外国のホテルに泊まることも多かったので、お湯のシャワーも、日本風に湯ぶねにつかることも平気なんだと言います。

 

 僕のつたない英語で、いろんなことをソーカー・ジュニアと話しているうちに、年齢が近いこともあってすっかり打ち解けて友達のようになっていました。

 どちらが先に言ったのか、そのうちビートルズの話になりました。

 ビートルズの曲で、僕が唯一歌詞を覚えていて、歌えるのが「アンド・アイ・ラブ・ハー」です。

 「この曲知ってる?」と、僕が歌い始めたら、彼も一緒に歌ってくれました。

 湯ぶねの中で二人して歌っていたのですが、風呂場はエコーがかかって、われながらとてもいい声だと思ったのです。実際にはどうだったのか分かりませんが、少なくともソーカー・ジュニアは甘くすてきな歌声でした。ちょっとポール・マッカートニーの声にも似ているかもしれません。